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「自分の頭で考える」3つのトレーニングー違和感の授業④

答えがない時代になった……ここまでいきなりで抜本的な変化になるとは、思ってもなかったけど。ただ前の回で書いたように、古代ギリシャ時代も幕末も、自分がやるべきことは、「自分が考えることと、行動すること」だけ。基本はいつも、変わらない。

たとえるなら「明日は雨が降るかな、降らないかな」と思い悩んで寝不足のまま思いがけず晴天の球技大会の朝を迎えて大慌てするのではなく、「私は、明日雨が降るならこうする、晴れならこうする」と決めてしまって、ぐっすり眠る。そんなかんじ。

とはいえ、ノールールあるいは全員マイルールのスペインで10年過ごした経験から感じるのは、とくに「まわりと合わせる」ことを子どもの頃から要求される日本においては、「自分の頭で考える」には意識的なトレーニングが必要だろうということ。筋トレならぬ考トレ(←なんて読むんだ?)

というわけで、今日は、私がふだん自分で意識している方法を3つ、書いてみます。


▶①主語を「私」にする。

これと対極にある言葉を考えてみる。「人類は助け合うべきだ」 「夫婦って労わり合うものだよね」 「そんな時間の使い方してると、将来ろくな人間にならないよ」……うわ、1秒先はケンカ必至。そうではなく、すべて「私は~と思う」という構文の中に入れるチャレンジをしてみるの、おすすめです。

上の文章を言い換えてみると、「私は、人類は助け合うべきだと思う」 「私は、夫婦って労わり合うものだと思う」 「私は、そんな時間の使い方をしてるとろくな人間にならないと思う」。そして、もしもあなたがそう言ったなら、聞いていた相手はおそらく問い直すはず。「で、あなたは何をしているの?」

そう、「私」を主語として話するためには、相手から「で、あなたは?」と問い返される覚悟を決めないといけない。自分の言葉と行動に対する責任を引き受ける覚悟をする。これが、「自分の頭で考える」トレーニングのひとつめ。


▶②問いを立て続ける。

「自分の頭で考える」とは、つまり、「誰かが出す答えに寄りかからない」こと。外部が出したものであれ、自分で導き出すした結論であれ、「答え」というものをすぐに求める姿勢は、それ以上考えないための思考停止に過ぎない。「とりあえず、ビール!」的な。(※ちゃんと考えてみると、最初からハイボール飲みたいことが多い)

とはいえ、居酒屋で「とりあえずビールでいいっすか」感あふれる店員さんに少し待ってもらうのはまだしも(※それでも遠慮しちゃうけど)、もし戦場で「生きるべきか、死ぬべきか、ハテサテ」と頭を抱えて悩んでいたら、銃弾を避けられず死んでしまうかもしれない。

なので、答えではなく仮説を出す。そして、「自分の考えは常に仮説である」ことを忘れずに、考え続けるといい……まずは生き延びた後に。


ちなみに私個人としては、ひとつだけ、「答え」があると思っている。私たちが生き物だという前提から導き出される唯一の正解、「生き延びること」。つまり「生きるべきか、死ぬべきか、それだけは問題ではない」(※シェイクスピアさんごめん)。逆に言うと、あとはすべて「生き物の必然ではない」のだから、問いを立ててOKだと思っている。

だって、ビールを飲んでもハイボールを飲んでも死なないし、仕事をする理由がお金であっても生き甲斐であっても死なない(※過労死だけ注意)。そのあたりは単に美学。

日々直面するたくさんの問いのなかから、その時々にひとつを選んで行動し、しかしその答えに固着するのではなく問いを立て続ける。そんなタフな試行錯誤こそが、「自分の頭で考える」トレーニングの、ふたつめ。


▶③違和感を大事にする。

頭だって細胞だもの、身体だもの。「考える」は、「歩く」とか「食べる」とかと同じように、人間の身体がいろいろできる営みのひとつ。そして身体は、ちょっとしかボキャブラリーがない言語で考えるよりも、ずっと多くのことを、まさに全身で感じてくれている。(……ということを、私は麻雀と合気道で学びました。両方、現場では考えている暇なんてないから)

そのなかでも「違和感」は、脳で言語化される前に、身体が感知して発動するアラームだと、ふたつ前の記事に書きました。賢い(と自分で思いたい)頭が、取り急ぎ答えを出して納得してしまいそうなところを、身体が問いを立ててくれているのだと、私は思ってます。

誰にだって、自分の軸がある。ちょうど、それぞれ固有の顔や身体があるように。ただ、それに意識的になり、より太くするかどうかは、それぞれの判断とトレーニングに委ねられると思っています。なので、身体が教える違和感をちゃんと大事にするのが、「自分の頭で考える」トレーニングの、みっつめです。


▶だからって、偉いわけじゃない。

ちなみに、これだけ書いておいて、なのですが、「自分の頭で考えて、行動する」が偉いとか思っているわけじゃないです。”渋滞の高速道路を次のインターで降りて一般道を走った方が目的地に早く着くかどうか問題”と同じで、「自分の頭で考えた方が余計だった」という結果も、もちろん半々くらいであるはず。

ただ私は、「自由である」ことがものすごく好きだし気分が良いので、高速道路で身動きできずにイライラする時間よりも、一般道に降りたけどやっぱり混んでて仕方ないから面白くもなさそうなドライブインに入ったら思いがけずピザが美味しくて、つい置いてあった『宇宙兄弟』読み始めたらハマっちゃって気がついたら夕方になってて仕方ないから今日はもう目的地行くの諦めようか……という時間の方が、自分にとっては「まだマシ」だということを、数多くの失敗の経験から知っているだけ。

あ、そっか。まずは、自分がどうあったら幸せかを知るところからかもしれないなあ。


答えのない時代に、自分の頭で考えたいと思う方へ。すこしでもお役に立てたら、幸いです。


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