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非常時の判断基準と、行動基準(拝啓:エピクテートス&勝海舟)-違和感の授業③

いや、大変だ。「VUCAの時代」なんてキャッチ―なワードを持ち出さなくても、「いやー、”正解”がない時代ですね」と言えば、多くのひとが「だねえ」と肯首するのではないだろうか。未知の事態に、たくさんの情報が錯綜し、だいぶ疲れも溜まってきた。さて、どうやってご機嫌に生き延びよう?

こんなとき、私自身が立ち返る「原点」みたいなことを、書いてみます。


▶1.非常時の判断は、「絶対」基準。

平穏な日常が続くときは、「より便利」とか「より素敵」とか「よりお得」とかが判断基準となっている。そして、その日常をちょっと揺るがしちゃう可能性があるイレギュラーなことを、「リスク」と呼ぶ。語源は、イタリアの危険を顧みず海に漕ぎ出す船乗り。だから「最小にする」というヘッジができる。つまり平常時には、相対的な基準で判断できるのだ。

ところが非常時には、そんな「相対的にプラマイゼロのライン=日常」がなくなる。もはや比べるものがない。そこで起こる危機はもはや「リスク」ではなく「クライシス」。そしてクライシスの語源は、ギリシャ語で「判決など決定を下す」ことだという。非常時、いったい何の決定が下されるのか? 生き物として唯一の取り返しのつかない「決定」、それは「死ぬこと」だ。つまり「死ぬか、生き延びるか」、非常時にはそれだけが絶対的な判断基準。


私はスペインで10年暮らしてきた。お世辞にも治安が良いとは言えなかった。ぼったくり、スリ、泥棒、ニセ警官、そして首絞め強盗までが「日常」で、もし被害にあったとしても「あらま防御力が低かったのね」という程度の反応。さらに私がいた時期は、ETA(バスクの分離独立をめざす組織)のテロもあり、さらにアルカイダによる無差別テロもあった。

「大量の現金と高値で売れるパスポートを持っていて、おとなしくて、隙が多い」とその界隈で高評価(?)の日本人、である私。常に、それらのリスク……というか首絞め強盗などクライシスの中にいた。そういえばスペインでバブルが崩壊して移民排斥の空気が高まったときには、ベビーカー押して乗り込んだ地下鉄車内で、ナイフもってるネオナチのお兄ちゃんたちに取り囲まれて罵声を浴びせられたこともあったなあ……(遠い目)。うん、死ぬか生きるかのクライシス。

そんなスペインでの毎日で私が身につけたのは、「生きて目が覚めれば、オールオッケー!」という絶対的基準。便利とかお得とか、どうでもいい。生き延びることだけが、揺るぎない正解。だって、生き物だもの。ということは、いま思えばあの10年は、いわば毎日が非常時だったわけか。


▶2.非常時の行動は、「オレ」基準。

もうひとつ、頭がごちゃごちゃっとしてきたり、なんとなく不安感や焦燥感が出てきたときに、いつも思い出すことがある。ギリシャの哲学者エピクテートスの「権内/権外」。この耳慣れないワード、私は「コントロール内/コントロール外」と理解している。

・権内(コントロール内):自分が考えることと、行動すること。
・権外(コントロール外):上記以外。たとえば自分の思想や行動に対する他者からの評価とか、世の中がどう変わるのかとか。

権内のこと、つまり「自分が考えることと行動すること」は100%自分がコントロールできるから、やり尽くす。でも権外のことはどうしようもないから、気にしない。以上。


たしかエピクテートス『人生談義』の19ページ、牢屋のエピクテートス先生が、時のローマ皇帝の使いから「お考えを変えてください、さもなくば私はあなたの首を刎ねることになります」とか言われる場面が出てくる。そこで先生は、「いつ私の首が刎ねられることのない首だと云ったか。」と答えるのだ。他人の評価は知ったこっちゃない、私の首を刎ねるのはあなたの仕事であって私がコントロールできることではない、と。すげえ。

ちなみに、明治時代になって福沢諭吉から「江戸城無血開城とか、あれ、どうなの? 最後まで抵抗する”痩せ我慢”が必要だったのでは?」(※意訳)と言われた勝海舟の返事、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せずと存じ候」にも、同じ凄味を感じる。「行蔵」(行うことと、思うこと)は俺がすることやろ、外野がガチャガチャ言うな、どーでもええわ、と。

瞬時に判断しなければならない非常時こそ、自分の思想と行動だけにフォーカスする。つまり「オレ」基準

※ちなみに私にエピクテートスを教えてくれたYahoo! JAPANの元同僚で哲学者・吉川浩満さんの最新著書が、まさに『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね』(筑摩書房)画像1


▶ご機嫌に生き延びる。

明日の球技大会、晴れるかしら雨かしら。いろいろ考えて眠れなくなってすっかり睡眠不足で迎えた予想外に晴天の大会でパフォーマンス発揮できず……というのが、いちばんもったいない。

天気は「権(コントロール)外」。でも自分の思想と行動は「権内」。「晴れたらこうする、雨ならこうする」と整理して考え、準備して、ぐっすり寝る。おそらくそれが、いちばん身体にも心にも良い。少なくとも私自身が、機嫌よくいられる。


いま、未知の事態に、たくさんの情報が錯綜している。晴れてもロケット飛んでくるかもしれないから気をつけろ。そもそも雨を降らせるのは誰かの陰謀だ。球技大会の予算があるなら別のことに……。どれにも誰かの正義があり、でもどれも明確な「正解」ではないから、情報に触れるたびにどんどん疲れが溜まってくる。

そんなとき、私が考えることを共有させていただきました。ここから「じゃあ自分の頭で考えるには?」に続くのですが(そこに「違和感」が出てくる)、長くなったのでいったんこちらで投稿しますね。

困難な時代、だけど、生き延びましょ!



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