見出し画像

プロ倫 第二章(前半) カルヴァン派を中心とした宗教の理性化と浮かび上がる敬虔派

はじめに

まず第一章から言えることではあるが、改めて非常にキリスト教に関する多くの情報から議論が進められていると思った。主題であるカルヴァン派についてももちろんだが、それに対峙するルター派、ピューリタンについてもそうだ。対立構造を議論として作り出すためにはそれぞれのあり方を細かく書き込んでゆかなければならない。
かといってウェーバーは次のように書いている。カルヴァン派は、17世紀のイギリスやオランダの独立派の諸信団とも、またルター派とも、イギリス国教会とも、相違がはっきりとしているわけではない、と(p.139)。ある時点においての各宗派とカルヴァン派との微妙な違いを元に、どのようにして資本主義の精神という違いがわかる現象へと発展していったのかを示そうとしている。
そして大きく分けて今回の内容は比較で話が進む。1つ目の比較はルター派とカルヴァン派の比較。2つ目はカトリックとカルヴァン派の比較だ。

1つ目の比較:ルター派とカルヴァン派

恩恵による選びの教説

まずもって議論の中心はカルヴィニズム(カルヴァン派)で、ウェーバーは彼らが唱える「恩恵による選びの教説」に注目する。
選びの教説を知るためには、カルヴァン派、ではなく独立派やバプティスト派の信仰に近い「ウェストミンスター信仰告白」を読むとわかる。そこにはある人々は神から永遠の生命が予定されており、また別の人は永遠の死滅が予定されていると書かれている。神が人を選んで恩恵を与える構図だ。
そこからどのようにしてカルヴィニズムの信仰へと至るのか。
2つのパターンがあり得たという。1つ目は祈りによって「罪の感情の恐ろしい苦悶がとりさられたのち、喜びにあふれた信頼の力づよい情感が」信者に起こるという(p.151)ルター派的流れ。こうした恩恵の賜物は信者自身によって起こるのではなく、神が起こすものだという考えに至る。ルター自身も同様に考えたが、彼の派閥ルター派の信者は喜びの情感という体験に注目し、次第にそもそも恩恵自体が喪失可能だという考えへと至る。
一方カルヴァンは逆に恩恵への考えを深めてゆく。カルヴァンは教理の重要性を指摘する。神が永遠の生命を予定する者と、死滅を予定する者を決めるという教理は体験によって得られたのではなく思索によって得られたのだとする。神のみがどんな規範にも属さない、完全に自由な存在であり、そのような存在は永遠不変であって、思索によって受けた恩恵はどのようなものであれ(つまり永遠の生命であれ永遠の死滅であれ)喪失不可能であるとした。

内面的孤独化

そのような考えに至ったカルヴィニズムは、次に「内面的孤独化」  (p.156)を起こしていくという。内面的孤独化とはどういうことか?
それは以下のような理解だ。「誰も彼を助けることはできない。牧師も助けえない、…聖礼典も助けえない。…また教会も助けえない、…最後に、神さえも助けえない」(pp.156,157)。教会や聖礼典による救済を完全に放棄するこの点はカトリシズムと決定的に異なっている。またキリスト教の歴史として、「呪術からの解放」の流れはここに完結しているという。
この内面的孤独化にカルヴィニズムの感覚的・感情的な要素への否定的、嫌悪の根拠がある。とともに、国家における国民性としての個人主義の基底も形作る。もちろんカルヴィニズムは極端な傾向だが、他の宗派であっても多かれ少なかれ内面的孤独化の傾向が見える。例えば友人に対して信頼するなと書いてみたり、迷惑なことは誰にも言うな、なぜなら神だけが信頼しうるからだ、としたりする(p.158)。

さて、ちょっとここで一歩引いてみたい。例えば「神」を「推し」に変えてみたらどうだろうか。「迷惑なことは誰にも言うな、なぜなら推しだけが信頼しうるからだ」。こんな言葉はこの現代日本においてどこからか聞こえてきそうではないか。あるいは陰謀論はどうか。
日本で内面的孤独化がなぜ起こっているかはよくわからないが、確実に起こっている感触がある。
カルヴィニズムは思索に集中することで内面的孤独化が発生したとウェーバーはしているが、例えば現代日本においてはメディアがそれを擬似的に発生させているとは言えないだろうか?
言語ばかりが横行するSNSやスマートフォンは人の感覚、感情の発露を限定化して奪い、人に思索を強制してゆく。確かにそれは呪術からは解放されていくが、同時に周囲の人間を疑い始めてゆく。同じ信仰方式を持つ者とは繋がれる(推し活仲間とは繋がれる、同じ「陰謀論」を語っている人とは繋がれる)が、それ以外とは繋がれない。

隣人愛とカルヴァン派の功利主義的性格

プロ倫に戻る。国民性や社会性としての個人主義は内面的孤立化とどのように繋がっているのかという疑問も湧く。ウェーバーは隣人愛を引き合いに出して職業や仕事の観点から説明してゆく。
隣人愛とは他者への愛を意味するが、ルターとカルヴァンで若干取り扱いが違う。ルターはすべての職業が神の前に自由だとしつつ、世俗的義務として仕事を行うことは、目の前の人への愛、すなわち隣人愛であるとして「厳しく命令されている」とする(p.123)。
一方カルヴァンの解釈は、神の栄光の奉仕としての隣人愛である。神という他者=隣人への愛というところだろうか。「何よりもまずlex naturae(自然法)によってあたえられた職業という任務の遂行のうちに現れるのであり、しかもそのさいに、(…)われわれを取り巻く社会的秩序の合理的構成に役立つべきものという性格を帯びるようになる」(p.166)。なぜなら神は次のように欲するからだ。人間生活の社会的構成が神のいましめに適合し、目的に合致するように編制されていることを、神は欲するだろうから(p.166)。ここに「カルヴィニズムの倫理の功利主義的性格の根源」がある(p.167)。

神性から見るカルヴァン派の外形への固執

ルター派とカルヴァン派の対立は鮮明になってゆく。「ルター派の信仰が最高の宗教的体験として追求したものは、神自身との》unio mystica《『神秘的合一』」であり、「信仰者の霊魂に神性が現実に入りこむ感覚」を得ることだった(p.182)。ルター派もカルヴァン派同様に合理的生活態度を促しはしたが、この神秘的合一への追求によってその合理性はトーンダウンしがちだった。
一方でカルヴァン派は神的なものが人間の霊魂の中に入りこむことは、「全被造物に対する神の絶対的超越性からして」ありえないことだとした(p.183)。彼らはあくまでも自然法に沿った動きを人間はしているだけであり、真の信仰の識別は「神の栄光を増すために役立つようなキリスト者の生きざま」によってできるとした(p.184)。信仰を持ちつつも外形を整えて生活を聖化(sanctificatio)することで真実の善行となり、神の栄光を増し加えられるとした。

2つ目の比較:カトリック(や旧約)とカルヴァン派

このルター派とカルヴァン派の対立によって、ルター派はカルヴァン派の考えを「行動主義」だと非難した。この行動主義という言葉はかつて中世の信徒の日常生活とは異なる、独自な性質を導き出す。この中世の信徒とはもちろんカトリックの信徒である。(つまりここからカルヴァン主義とカトリックの比較に入ってゆく。キーワードは「禁欲」である。)

善き行動と修道院、そして日常生活

かつての中世の信徒は「善き行動」を、当然行った。しかしそれら「善き行動」は相互に関連せず、「個々の行為の羅列にすぎな」かった。カトリック教会は「人間が一定の明確な動機で動くものと評価しうるような統一体ではなくて、その道徳的生活は(通常)いくつかの争いあう動機をもつ、しばしば矛盾にみちた行動だということを、(…)現実的な態度で考慮にいれていた」(pp.191,192)。
カトリックでは聖礼典のもたらす恩恵によって、人間にはどうしようもないものを補うことができ、人間の内面的緊張をほぐす役割を果たした。
一方カルヴァン派は組織のシステムにまで高められた行動主義が神によって求められているとした。「生活態度の全体にわたって、一貫した方法が形づくられることになった」(p.197)。このような合理化は禁欲主義を産んでゆく。もちろんカトリックにも禁欲主義は存在する。特に明確に修道士には存在した。禁欲の目標は「意識的な、覚醒しかつ明敏な生活をなし」「無軌道な本能的享楽を絶滅することが当面の課題であ」り、カトリックであれカルヴァン派であれ、「信奉者たちの生活態度を秩序あるものにすることが、もっとも重要な手段となった」(p.202)。

確かにカトリックには修道院はあった。しかしそれ以外の部分を含んだカトリック全体としては無組織・無統一であり、その倫理は最高の理想に到達しなかった。結果として「宗教的な意味においてすぐれて方法的な生活をおくる人間はどこまでも修道士のみに限られ、したがって世俗内的道徳を凌駕することこそが独自な聖い生活だ」(p.206)と考えられるようになっていった。カルヴィニズムがカトリックから修道士を抜き取った、とでも言えるのではないか。
禁欲と日常生活はどんどんと密着していき、カルヴィニズムでは「世俗的職業生活の内部で、禁欲の理想を追求しなければならなくなった」(p.207)。彼らは世俗的職業生活において成功することで信仰を確証することが必要だという考えを付け加えた。ここに修道士たちの世俗の外側に位置した宗教的貴族主義に置き換わる、世俗内部の宗教的貴族主義が生まれることになる。
この世俗内部の宗教的貴族主義は、かつての修道士たちの貴族主義よりも苛烈である。隣人の罪悪は寛容に受け止められるわけではなく、「永遠の滅亡への刻印を身におびた神の敵への憎悪と蔑視となった」(p.208)。カルヴァン派の生活の聖化(合理化)は進められてゆく。ついには生活が事業経営性すら帯びるほどだった。

章題にも書いたが、こうしたカルヴァン派の理性的で感情抑制的な側面は旧約の影響があると指摘している。(p.212)

突出する敬虔派への着目

ルター派とカトリックという二つの比較対象をもとに、プロ倫は次の展開を見せてゆく。
ルターという天才は「自由なとらわれない精神的雰囲気の中で(…)堕落することもなしに、生活することができた」(p.218)。ルター派の人々は素朴で感情や情緒が豊かな生活態度を持っていた。ルター派には生活態度への禁欲の浸透が不足していた。「ルター派の信仰は、まさしくその恩恵論自体の帰結として、生活の方法的合理化を必至とするような組織化への心理的推進力を欠いていた」(p.219)。 
さて一方カルヴァン派は、特に敬虔派の人々が浮かび上がってくる。敬虔派の人々は教会に対して不信を抱いていた。「『敬虔の実践』の信奉者だけの『集会』」を作ったり、「俗世の勢力とは無縁な、すべての点で神の意志に適った生活を送ろうとし、またそれによって、日常生活の外面的な表われにおいても、自己の再生を確信しつづけたいと考えた」(p.225)。禁欲を強化することによって神との交わりの悦びを味わおうとした。
ここにルター派の神秘的合一と類似するところがある。この点は通常のカルヴァン派にはない感情的な側面が、敬虔派によって強められているといえる。だがその感情性の強調は単に「世俗的職業生活の内部で救いの確信をえようと努め」ているだけであり、その限りにおくからこそ、感情を比較的重んじる敬虔派の活動は「むしろ職業生活の禁欲的統御が一層厳格となり、職業道徳の宗教的基礎づけが一層強固になるという方向にあらわれた」(pp.226,227)。宗教的貴族主義の後押しもあって、自主的な集会だけではなく、信団(ゼクテ)の形をとる敬虔派も現れていった。

終わりに

このブログ記事の終わりとして、もう少し感想を書いてみる。
今回のパートはかなり歯応えある内容だった。まとめの記事もかなり長くなってしまった。カルヴァン派との比較対象がかなり出てきて迷う文章もあったが、今回はルター派、カトリックの二つで大きくまとめてみた。わかりやすくなったのではないかと思う。
カルヴァン派の行き過ぎた考えによって神があたかも隣人になってしまったのは、なぜなのだろうかと思う。神は崇高であり、隣にいる人ではないはずなのにも関わらず、神以外の俗世が全て信じられないとなると、人間即神となって隣人が神しかいなくなってしまう。
一方で人間には感情が湧き起こってしまう。そうすると神を熱望するしかなくなる。敬虔派はその熱望をもとに、カルヴィニズムの合理的な世俗的職業生活をより確固たるものにしようと活動してゆくことになる。
カトリックの修道院という制度に対しても、それしかなかった、あるいはそれしかないと思い込むようなあり方が生まれてしまったのは非常に惜しまれる。カルヴァン派に修道院を抜き取らせることが起こらなければ、何かが異なっていたのかもしれない。カトリックに文化的豊穣さが足りていなかったとは言えないのだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?