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社会にまみれる感情と禁欲ーープロ倫の感想の続き

以前からウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んでいる。その感想の続きだ。

感情的で理論の一貫性に欠ける敬虔派の浸透

カルヴァン派が恩恵について未来に確証しようと内的思索に集中したのに対して、その内的思索の力を敬虔派は現在に移して感情的になった。カルヴァン派が職業労働によって確信しようとしたのに対して、謙遜と砕かれた心(Gebrochenheit)が理想とされた。このように敬虔派はカルヴァン派と比べて合理化の強度が弱められたといえる(pp.251,252)。
敬虔派によって世俗内の合理化は後退したが、「生活への宗教の浸透をますます方法化させ」(p.252)ていった。浸透の対象となったのは農民ではない、「『職業に忠実な』役人、雇人、労働者、家内生産者たち」である。敬虔派とは「『有閑階級』のための宗教的遊戯」であった(p.253)。

感情の振れ幅いっぱいメソジスト派

ヨーロッパ大陸の敬虔派に対立して、イギリス=アメリカではメソジスト派(Methodist 方法派)がある。メソジスト派ははじめから大衆への伝道を目指していた。よって激情に訴える形で活動を進めていた。この激情性と、ピューリタニズムの合理的性格が独特な結合を起こしていく。
メソジスト派はピューリタンのように感情をすべて捨て去ることはない。純粋に感情的な絶対的確信を「原理上救いの確かさのただ一つの確実な基礎だと考えた」(p.256)。キリスト教に一般的な回心だけではなく、「聖化」が起こることによって罪なき状態に達する。行為だけでは認識根拠にすぎず、恩恵の地位としての感情がこれに加わらなければならなかった。
これらのことの結果として起こったのは二点。方法に縛られた生活の緩み、そして「ピューリタン型の感情的昂揚」であった(p.258)。「メソジスト派のもたらした…『大覚醒』は恩恵と選びの教説の昂揚をその特徴としていた」(p.259)。

感情を否定するが文書も否定するクエイカー派

「プロテスタント的禁欲のいま一つの独自な担い手」であるのがクエイカー派である (p.263)。クエイカー派は他の洗礼派系キリスト教よりも、より信団的であり、「みずから信じかつ再生した諸個人、そうした人々だけからなる団体だとされた」。「キリストの救いの業績を内面的に自己のものにすること」を主張した。結果としてクエイカー派は教養としての信仰や、恩恵を獲得するための信仰を否定し、「原始キリスト教の精霊宗教的な思想の復活」を目指すことになった(p.264)。
クエイカー派が設立された当初は厳格な聖書主義が貫かれていたが、次第に「彼らの宗教的意識の聖霊的性格」が押し出されてゆく。「文書としてではなく、日々の生活のなかでそれ(神の啓示)を聴こうとする信徒個々人に直接語りかけ給う、聖霊の力として働く言[ことば]が、いつまでも存続していることこそ」(丸かっこ内筆者、角括弧ルビ)が彼らの主張であった(p.266)。
クエイカー派は聖霊の働きを「待望」する。集会を開いて沈黙し、ただ待望する。その目的は「人間の衝動的で非合理的なもの、激情や主観的傾向を克服すること」である(p.278)。この沈黙の思想は人々に冷静に行動することを促し、個人的な吟味を深く行わせる結果になった。
洗礼派系の信者らは「職業への経済的関心」も深めた。なぜか。
一つはキリスト教において伝統的に行われてきた官職に就くことの拒否である。洗礼派の人々は兵器の使用を厳格に拒否した。これによって官職に就く資格が失われた。また、洗礼派の信者は「貴族主義的な生活様式に対する頑強な敵対的態度」を取った。「洗礼派的な生活態度のまじめで良心的な方法的性格は、一切をあげて、非政治的な職業生活の方向へと追いやられていくことになった」(pp.280,281)。

大衆に広まってゆくにしたがって文書主義が無くなっていくキリスト教の歴史。それによって段々と経済に対して強迫的にコミットするようになっていく。方法に縛られる慣行はそれぞれの宗派で微妙に異なりながらも、それぞれで残り続ける。方法に則るからこそ、自動的に経済活動へとコミットするようになってしまう。

長老派バックスターからみる禁欲の一般社会への浸透

クエイカー派のあとは長老派のバックスターという人物が行った議論についてまとめている。節題にもあるように禁欲が中心的な議論のテーマだ。「バックスターの主著には、…厳しく絶え間ない労働への教えが繰りかえし、時には激情的なまでに、一貫して説かれている。」(p.300)
禁欲によって形作られたキリスト教的な資本主義は伝統的なユダヤ教における経済的観念ともずれていく。「ユダヤ教は政治あるいは投機を指向する『冒険商人』的資本主義の側に立つ」一方で、「ピューリタニズムの担うエートス(精神)は、合理的・市民的な経営と、労働の合理的組織」の立場だ(p.320、丸かっこ筆者)。

また、自由主義的な国王の権力との対立によって禁欲は独自に強化されていく。国王はピューリタニズムを圧迫させるために民衆的娯楽を法律上許可した。それに対抗するようにピューリタンらは自身の禁欲的生活態度を擁護していく。別段すべての遊戯を否定するわけではない。ただ「合理的な目的、つまり、肉体の活動力が必要とする休養に、役立つものでなければならなかった」(p.329)。
ただ自分が楽しいから遊ぶ、というのは神の栄光に反するために危険であるという論理だ。「人間は委託された財産に対して義務を負っており、管理する僕、いや、まさしく『営利機械』として財産に奉仕する者とならねばならぬ」という思想が世の中を覆っていく(p.339)。「プロテスタンティズムの世俗的禁欲は、所有物の無頓着な享楽に全力をあげて反対し、消費を、とりわけ奢侈的な消費を圧殺した。」「外物への執着との戦いは、…所有物の非合理的使用に対する戦いなのだった」。「禁欲は有産者に対して決して苦行を強いようとしたのではなく、必要な、実践上有用なものごとに所有物を使用することを求めた」(p.342)。かつての貴族主義のようにただ優雅さを喜ぶのではなく、市民的な清潔で堅実であることを理想に掲げた(p.343)。
神の栄光のために禁欲するという実質は、しかし次第に薄れてゆく。「『天職義務』の思想はかつての宗教的信仰の亡霊として、われわれの生活の中を徘徊している」(p.365)。

感想とまとめ

ちゃぶ台がえしにはなってしまうが、資本主義という言葉を使いながら、経済学的な視点に立った議論が少なかったのが正直残念。第一章付近で事業経営の様式やその動きについて、伝統主義と資本主義の比較があったのは興味深かった。だがそこから議論が発展することはなかった。資本主義の精神などと表現されるのは一定程度わかるのだが、宗教の分析だけで資本主義を語ろうとするところに無茶がある気がしてならない。
おそらく経済活動ということそのものの受け取り方がウェーバーと私とで違うのだろう。ウェーバーは人の内面、精神に着目した。精神が人を動かす。人が動いて経済活動する。であれば根本の精神を見なければならない。(しかし精神とは宗教なのか?精神を議論するのにキリスト教に着目する理由とは?)
プロテスタンティズムによって人は内面的孤独化した。隣人愛の概念も微妙に歪んだ。人を隣人とするのではなく、神を隣人とした。神が欲するであろうことのみが良しとされるとした。経済的繁栄によって神の栄光はますます示されるということになる。
また、カルヴァン派の周辺で、カルヴァン派と同様に合理的な生活方法に着目しながらも、より感情的に振る舞うことで当時としては富裕な労働者たちへの布教を狙った敬虔派もあった。
プロテスタンティズムは原理的になっていった。原始キリスト教への回帰を主張したクエイカー派はキリスト教内部の官職に就くことを拒否し、自身の世俗的職業へと邁進していった。
長老派の議論を見れば、以上のように押し出されてゆくキリスト教プロテスタントらが経済的に何を主張していたのかがわかる。それは禁欲だ。しかもただの禁欲ではない。目的にあった休息や遊びなら許容される。しかし神の栄光に無頓着な贅沢は許されない。かつての伝統主義にあった寛容さは合目的という縛りの中に囲われてしまう。そしてその「神の栄光」ですら、時とともに薄れてゆく。合目的であることという思考回路だけが社会に残される。
なぜ合目的であることの思考回路だけが残されるのだろうか?それが残ることは人々にとって得なのか?功利主義的に人々は合目的であろうとする?そもそも利益とは、富とはなんなのか?豊かであるとはどういうことなのかの考察が足りていないのではないか?
神への信仰についてはもちろん一定理解できるけれど、(ここがウェーバーの致命的なところかと思うのだけれど)あまりにも理念型的な思考に偏りすぎているのではないか。文化人類学的なフィールドワークというか、より具体的な事象についての考察が抜けすぎていて、複雑な動きをする現代社会へどのようにプロ倫を適用できるのかが素人にははっきりしない。おそらく非常に細かく問題設定して、局所的にプロ倫の議論を使えば、ある一部分の道筋が見えてくるということはあるのだろう。しかしそれ以上でも以下でもない。
プロ倫はあくまでも宗教(キリスト教)についての基礎研究書だ。資本主義や精神に強く関連するものではない。

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