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よい暮らしをどのようにして手に入れるか

信濃さん、こんにちは。お元気ですか?
私は結構疲れ気味。旅行に張り切って行きすぎかも。お腹の調子が悪いです。ビフィズス菌が入っている整腸剤を毎食飲んで、調子を整える日々です。

前回のキケロ解説本も面白かったですね。
ローマとギリシアの違いをより深く意識できるようになった気がします。西洋哲学を扱う書物にはギリシア関連の用語が多数出てきますし、それをローマの人々が受容した上で中世へとつながっていくので、おっしゃるように連続、断絶、改変を身体化する過程として必要な一歩だったと個人的には考えています。

さて、今回選んだ本はスキデルスキー親子の『じゅうぶん豊かで、貧しい社会』(2022)でした。面白かったですか?
私は面白かったです。雑感をここでサッと書くと、自分自身の政治・社会好きについて改めて気がつかされました。どうやったらこの社会をより良くできるのかについてもっと考えたいですし、この本はその足がかりになりそうだなと思っています。より日本の政治について考えたいですし、自民党についてももっと知ったほうがいい。そう感じています。

さて、本題に入る前に最近考えていることを書いてみます。本のことも書くとかなり文面が長くなりそうです。
ごめんなさい。
でも今回はそうした方がいいと気がするのです。思いを書き起こしておいた方がいい。
信濃さんがおっしゃっていた言葉が気になっています。それはこういう言葉でした。
「会社が嫌いだ」と。
この言葉がひっかかっているのです。
私も最近そのように思うことが多々ありました。ですが、それでいいんだろうかとも思うのです。これが正しい考えなのか。嫌いだ、とばかり罵っていても話は動かない。そもそも会社を嫌ってしまうような自分に問題がある。
今の自分の境遇に自分で、自分から陥ってしまった。飛んで火に入る夏の虫。
そもそも会社というのは不条理を生む社会だと思います。特に日本型の企業ではそうです。年功序列、前例踏襲主義、権威主義。
こういう構造があるのにも関わらず、周りの人を恨むのがよろしくないと自分で反省する日々です。上記の慣習にとどまらず、そもそも私自身の業務遂行能力がまだまだ付け焼き刃の感もある。分かっていることと分かっていないことの区別がついていないので忙しい周りの皆さんの時間を取る。(前例踏襲はこうした私の技術力のなさから、それをあてがわれてなんとか体裁を保たせようと周りがしているのかもしれません。)
もしかしたら悩みすぎなのかもしれません。答えは別のところにあるのかもしれない。契約切れでまた別のところに流されて、答えを見つけるのかもしれない。まだよくわかりません。単に体を動かしてないだけかな。

・・・以上最近の悩みでした。
なんとなく、やっぱり何考えているかとか、ある程度は内面も書いたほうがいいかなって。
本題に戻って『じゅうぶん豊かで、貧しい社会』です。以下でこの本の一部を抜き出す形で議論を書いてみました。口調がちょっと変わっちゃうんですけど、真面目に書いてみたということでお許しください。(ちなみに僕は文庫版で読んでます。)

この本の大前提について

この本には大前提がある。その大前提は重要な議論の一部で出てくる。重要な議論とはまさに「よい暮らしという観念の消滅」だ。

よい暮らしという観念は消えてしまった。なぜか。それは現代の自由主義、そして新古典派経済学が主流となって2つが影響し合い、「公正」と「不正」の言葉の意味が変質したからだ。
ロールズの『正義論』(1971)以降、自由主義者は中立性を重視するようになった。しかしもともと自由主義は寛容の思想であって、ある倫理・宗教観以外の思想を配慮と尊敬をもって扱うことだけを要求する。中立を根拠にして許しがたいものにまで寛容にはならない。(「中立」については統一教会と自民党との関係でも議論できそうだ。)

なぜ自由主義者は寛容から中立へと傾いたのか?
それは自由主義的プロテスタンティズムの衰退と民族・文化的多様性の拡大が原因だった。一つの宗教・文化を公的機関が支持することが不当だと受け止められるようになった。

ところで、そもそもこうした中立への考え方は経済学においては馴染みがあった。ジョン・ロックを代表として、経済学はアリストテレスから離れて経験主義を標榜したからだ。
ロック曰く、天国と地獄の存在が人間に徳を促す決定的な要因になっている。しかし、(だれもが天国や地獄の経験など無いのだから、)もし天国と地獄がなかったとしたら、「どれか一つの生き方が他よりよいとは言えまいと付け加えた」(pp.154,155)。

こうして古代から続いてきた良い欲望と悪い欲望の区別を覆し、経済学では無条件な、ただそこにある欲望前提の議論をするようになった。経済学において「本質的に望ましい生き方は存在しない。存在するのは各人が望んだ生き方だけである」(p.155)とされるようになった。(二階俊博氏の発言、「『応援してやろう』と言ってくれたら、『よろしくお願いします』っていうのは、もうこれは合言葉ですよ。モノを買いに来てくれたら、『毎度ありがとうございます』って商売人が言うのと、同じなんですよね。」が思い出される。政治家は商売人と同じなのか。売られるのは国民か。)

こうした経済学の考え方は他の思想にも影響し、いくつか考えの置換が起こった。一つは欲望と必要の区別が無くなり、欲望の中に必要が組み込まれることになった。「よい暮らし」は「欲望を満たす」に置換された。
物の使用価値も取り上げられなくなり、「効用」に置換された。別々の物の比較の勝者に高い効用があるとされる。しかし、使用価値を有用性の観点から考えれば、比較に基づく交換価値に転換することはできない。効用からこぼれ落ちた有用性は放置されることになった。

ところで、そもそも経済学の言うことを聞かなければならない理由はなんだろうか?他の学問からよい暮らしについて有力に考えることはできないのだろうか。その答えにこの本の大前提がある。

経済学は現代の神学であり、利害関係の絡む場面で相手に耳を傾けさせるためには、地位の上下を問わず経済の言葉を話さねばならない。

じゅうぶん豊かで、貧しい世界, p.160

また他の学問領域が淘汰されたことにより、上記引用の事態を避けては通れないと主張する。

現代の神学と価値観

大前提の説明が終わって、その続きはこうだ。貴族は富裕層になって個人化し、知識人や教会は影響力を失った。労働者もちりぢりになってしまい、それまであった制度的権威は崩壊した。こうした広範な社会的変化を背景に、「個人主義と主観主義を標榜する新古典派経済学が思想的空白を埋め」(p.161)たのだと。
ロールズ以降の自由主義と新古典派経済学はより良い生き方を公に認めることを禁じている。確かに個人が個人の中で、ある生活を「よい」とすることは反対されていない。だがその生活は公全体に認められることはない。現実的には小さなグループにて「よい生活」がなされていても、存続させるためには周囲から承認される必要がある。
以上のように、よい生活には公的な議論を欠かすことが出来ない。またこのようにして、よい生活の消滅が限りない欲望の肯定を助長してしまったのだ。

さて、大前提に戻りたい。この本は経済学が現代の神学であると赤裸々に認めてしまっている。ここに問題が含まれている気がするのだ。書かれている通り、利害関係が絡む場面で経済学やそれに類する、あるいは波及した言葉を使わざるを得ない。確かに世界は利害関係ばかりだが、さすがにそれだけではない。
もちろん、この本は利害関係しか取り上げていないわけではない。後に挙げられている7つの基本的価値はどれもほとんど金銭にまつわらない。(無理やり関係させるとしたら「5 自然との調和」だろうか。我々は自然とうまく付き合わなければ利益を得ることはできない。)むしろこの本では、裕福になった国家はできるだけ経済から離れろ、欲望を喚起させないような仕組みや抑制が必要だと説く。

この基本的価値にどうしても抗えないのは、やはり経済学が神学であり、私たちのどこかに必ず染み付いてしまっていて、その前提である利害関係をやっぱり考えざるを得ないから、なのだろうか。「1 健康」も「6 友情」も、すべては利害関係がごくごく小さいながらも確実に関係しているから、我々は大切にしようという気にさせられているのだろうか。いや、それはそうなのだろう。打算的でない人間などいない。完全に清らかな人間など教典以外に存在しない。

今回の記事ですべての価値を扱うことはできないだろうから、ここで以降議論したい価値をほんの少しピックアップする。その基準は、個人的に、そしてこの日本という国家において現状で重要だと思われる項目である。
まず「3 尊敬」である。定義を引用する。

他人を尊敬するとは、その人の意見や姿勢を重んじ、無視したり粗略に扱ったりすべきでないとし、それを何らかの形で表明することである。

じゅうぶん豊かで、貧しい世界, p.268

尊敬は文化によって異なっているものの、どんな尊敬にせよ他人から得るためには、「人はそれぞれに何かしらを成し遂げなければならない。最低でも、生活の糧をまっとうに稼ぐことが必要だ。」(p.270)
ではその成し遂げるためには何が必要なんだろうか。この基本的価値から考えれば「2 安定」や「4 人格または自己の確立」だろうか。どちらも読んでみると経済の安定や私有財産の重要性が説かれている。

ここまで徹底して経済のことばかり書かれていて、首尾一貫だ。しかし同時にやはり疑問がある。経済ばかりに注目していて深まりがないのではないか。例えば健康についての安定は考える必要がないのだろうか。とりわけ人間の心理についてはどうか。
人間の心理は不安定で常に頼りなく、そして心理が発達することで人格は確立される。物的フォローによって心理が発達するのだから、経済議論やむなしといえばそうだ。とはいえ、それだけだと結論が例えば税による分配など、「正論だけれども、あんまりやりたくない」ことで終止してしまう。もし心理や発達の議論が入り込めれば、このステップで人間発達する上で経済的な安定が重要であり、また別の要素も重要である・・・という形で議論に厚みが生まれるのではないか。

良い問題提起と次回への道筋

門外漢なので発達についてここで議論することもできないのが悔しいところだ。本書は大変に有用な問題提起の本だとは思うのだが、もっと別様な議論を呼び込む必要がある。
例えば発達の議論しかり、前提である「じゅうぶん豊かな国家」というGDPありきの考え方にそもそもNOを突きつける文化人類学的な議論も必要だろう。また哲学も気になる。
ユク・ホイ『中国における技術への問い』を最近手に取った。彼は技術を記述するために「歴史的、社会的、経済的な次元」を超えて、「形而上学的統一」を構築しようとしているという。大事なのは次の一節だ。

「統一」という言葉が意味するのは、政治あるいは文化の同一性(アイデンティティ)ではなく、むしろ理論と実践の統一である。より正確にいえば、それは共同体の(かならずしも調和とは言わずとも)まとまりを保つ生活形式のことだ。

中国における技術への問い, p.68

この「統一」、すなわち生活形式という言葉によってまとめられる「宇宙技芸」が彼の本論らしいのだが・・・さて、どんな本を次は読みましょうか。


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