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まずはどこが連帯のベースラインなのかを考えよう

こんにちは。
お疲れ様です。
元気ですか?こちらは・・・来月からの仕事がなさそうで、どうしよーって焦ってます・・・😂
まあお休みを少々取ってもいいかなとは思ってはいます。正直今は仕事らしい仕事があんまりできてない感触があって。The・仕事をやらせてもらえないなら、やんなくてもいいかなー、だったら勉強したいな、みたいな。そんなふうに思ってたり、思ってなかったり。フラフラしてます。

僕らのToughの活動もフラフラしているし、どうすんべなーって思ってます。何か軸がほしい今日このごろ。
色々本読んでますよ。もちろん課題のラカン入門本も読んでますけど、他にも。思い出せるのは、例えば・・・
村瀬孝生『看取りケアの作法』
神谷美恵子『神谷美恵子 島の診療記録から』
の二冊です。

村瀬孝生さんの本

『看取り・・・』の方は・・・「第2宅老所よりあい」の所長を務める著者が、長年お年寄りと付き合い、そして別れた経験やそこから得た知見について書いてある本です。こういうふうに書くと堅苦しそうですし、実際真面目に政治的な議論も少し書いてあります。介護保険のこととか、介護予防の政策についてとか。
でもそれだけじゃないんです。介護してきた一人ひとりに対していかに考えて振る舞ってきたのかが綴ってあります。介護の先輩からの言葉もきちっと踏まえながら、一つ一つの決断をする。そして最終的に介護している老人は亡くなっていきます。
もしかしたら自分の介護は間違っていたのではないかと、村瀬さんは疑ってみたりします。例えば、介護されていたみちこさんは幸せだっただろうか、と。

神谷美恵子さんの本

二冊目の神谷美恵子さんの本。精神科医で、ハンセン病患者の精神的問題に取り組まれた方です。この本の中で気になったのは、神谷さんが大学を卒業してから出会った×子さんとの思い出についての文章です。
知人に連れられてやってきた×子さんは神谷さんにとってなんだか不思議に映っていました。いるな。。。と思っていたら二・三ヶ月来なくなったり。

神谷さんの想像力を×子さんは掻き立てさせながら二人の関係は続いて行きます。例えば小びとがいるのだと×子さんは主張するのですが、それはバージニア・ウルフやネルヴァルといった小説家、詩人らの生々しい想像力と同じではないか、と神谷さんが考えたりします。
しかし・・・最後は悲しい結末に。ですが、×子さんは神谷さんが精神科医になったきっかけの人のようです。

山口裕之さんの本

で、それだけじゃないんです。今回はもう一冊あります。
というか、こちらの方が、なんだか中心なのです。中心に近い。
山口裕之『「みんな違ってみんないい」のか? 相対主義と普遍主義の問題』です。
で、この本を取り上げるのにあたって、私たちが読んだ本を再度取り上げたいです。それはロバート、エドワード・スキデルスキー親子の『じゅうぶん豊かで、貧しい社会』です。
僕は「よい暮らしをどのようにして手に入れるか」という記事を書いて、この本を紹介しました。もう一度その議論を引っ張り出したいと思うわけです。

よい暮らしはなぜ無くなっていってしまったのか

良い暮らしはなくなってしまった。なぜか。それは正しさの意味合いが変わっていってしまったからです。
かつて正しさとは寛容のことでした。しかし、次第に中立を意味するように変わっていってしまった。なぜか。
色々と理由はあります。「自由主義的プロテスタンティズムの衰退」「民族・文化的多様性の拡大」。それに加えて経済的な原因です。
経済学においてはジョン・ロックによって経験主義が重視されるようになりました。宗教上の徳の無意味さを説き、経験やそれを得ようとするところの欲望が経済学の中に入ってくる。
そうすると、良い暮らしというのは単に必要を満たすのではなく、欲望を満たすべきだという話になってくる。物の使用価値は語られなくなり、その複数の物の比較によって選ばれる物に高い効用があるとされる。その効用からこぼれ落ちる有用性は無視されてしまう。

貴族は富裕層になって個人化し、知識人や教会は影響力を失った。労働者もちりぢりになってしまい、それまであった制度的権威は崩壊した。こうした広範な社会的変化を背景に、「個人主義と主観主義を標榜する新古典派経済学が思想的空白を埋め」(p.161)たのだと。

よい暮らしをどのようにして手に入れるか

中立を主張する自由主義者と新古典派経済学は「良い生き方」を公に認めることを禁じます。
もちろん、小さなグループにおいて、しかも短い期間ならある種の「良い生き方」はできます。ですがそれを広げるとなると、人の預かり知らない欲望を押し付けることになってしまう。中立ではなくなってしまう。
また、一定期間続けるためにはグループの外側から承認されなければなりません。外圧によって身の危険があれば、もはやそれは「良い生き方」とは呼べなくなっていくはずです。経済的な取引をしないと外から判断されれば、グループ内部で暮らす人々の熱意も下がっていくでしょう。

人びとがバラバラに分かれると、良さは無くなってしまう

さて、『よい暮らし~』について私はこんな感じのことを書いたのですが、山口さんの『みんな違って~』にも同様の流れが書いてあります。
二次大戦後の文化相対主義。文化相対主義から個人主義への流れ。「人それぞれ」論としての新自由主義。
文化相対主義についてはフーコーやクーンが取り上げられ、「何をどんな手段で探求するのが科学的なのか」が、時代によって変化してきたことが主張されたと言っています(p.28)。つまり、正しさは文化や時代、理論体系によって異なっていることが議論されてきました(p.31)。
こうした文化相対主義は1960年代以降、社会問題とも密接に関わっていきます。例えば公民権運動やフェミニズム運動などです。(そういえばNetflixの「ラスティン」、良かったですよ。おすすめです。)
しかし60年代に盛り上がった社会運動は、それぞれのグループ内部での多様性(例えば女性は女性でも白人、黒人、高所得者、低所得者などというように)を発見してしまい、力を失っていきます。

こうして、多様性を求める運動は、どうしたら多様な個々人が抑圧されないようにしながら多数の人たちが連帯できるのかという大きな課題を積み残したまま終息しました。

山口裕之『「みんな違ってみんないい」のか?』p.35

この問題に対峙するのが2つの流れです。一つは「フランス現代思想」の流れ。デリダやドゥルーズ。もう一つは新自由主義です。
フランス現代思想では、人に名前やカテゴリーを押し付ける権力に対抗するべく、まずは連帯することを選びます。つまり、一旦は「女性」「黒人」「同性愛者」といった名前を引き受けるのです。「人それぞれ」「言葉にならない」などと言っていては連帯できずに国家権力に鎮圧されてしまうからです(p.37)。
まず引き受けたうえで言葉の意味や論理をずらして、言葉の力を連帯者たちの手に取り戻して取りこぼされる価値を拾い、連帯を模索する方向へと向います(p.38)。
こうしたフランス現代思想の流れは自由を尊重しながらも、平等を意識したものでした。60年代の学生運動や市民運動、ひいてはマルクス由来の社会主義思想の流れを引いていました。
しかし1991年にソ連は崩壊し、社会主義の説得力が失われていきます。そこで新自由主義が跋扈するようになるわけです。新自由主義は自由を重んじて平等を軽視します。「新自由主義こそが『人それぞれ』の思想」(p.40)なわけです。
結果として人びとは連帯しづらくなってしまい、各国政府は新自由主義の「人それぞれ」の考えを利用して人びとを支配しています。

しかし、我々は本当に「人それぞれ」なのか?

さて、小見出しにも書いた通りで、というかこの山口さんの本のタイトル通り、わたしたちは本当に人それぞれ、「みんな違ってみんないい」のでしょうか、というのがこの本の問いです。いやそうではないよね?そんなにみんな違わないのでは?という議論へ入っていきます。
いくつかの例が出てきます。まずは言語。ソシュールが説いた言語の恣意性。そして色彩語について。
色彩語から入ったほうがよさそうです。色が各国の言葉で異なる話は信濃さんもご存知のはず。しかし色についての言葉が違っても、各国の人びとに調査をかけてみると「もっとも基本的な色」だと呼べる色があるのだといいます。人間の目には錐体細胞があって、そこで青、緑、赤の三種類の色が反応することで色を見ています。そう考えると「色の見え方には人類普遍性がある」(p.54)というわけです。
またドナルド・ブラウンは、文化人類学やそれに付随する形で生物学、心理学、言語学を取り入れながら「普遍的人間」の特徴を列挙しました。
例えば、「言語を持つこと。…物語や詩を作る。…火を使う。…集団生活を営む。…礼儀作法やもてなしがある。甘いものを好む。宗教や呪術がある。」(pp.76-78)
このような共通性を考えると、単純に「正しさは文化によって異なる」とは言い切れなくなっていきます。「人間が生物として生きていくうえで必要なことは基本的に同じであり」、「一見すると自分たちの文化とはまったく異なるように思えることでも、それが何の目的で、どのようなニーズを満たすために行われているのかを考えれば、理解可能であることがほとんどです」(p.79)。 

まとめ

というわけで・・・まとまらない気もするし、まだ山口さんの本が全て読めていないのだけれど・・・。
かなり私としては刺激になりました。こういう議論は面白い。しかしなんで面白いのか?
ただ単なる正義論には興味が持てないんですよね。正しい、正しくない、正義だ!とかって言われてもピンとこない。しかし、連帯できる、できないとか、社会と正しさが絡んでくると興味が持てるのか。。。?
ドナルド・ブラウンの議論は興味深いですね。普遍的人間の議論を批判できるのだとしたら、どうやって批判できるのかも気になる。これを軸に連帯を模索していくというのはベースラインになりそうだと思いました。

また気になったら文章書いてみます。またね。

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