今考えたいこと三選

今、私の中でぐちゃぐちゃになっているものを書いてみて整理してみようと思う。以下素人のまとまりのない文章である。あまり真に受けないでほしい。
しかしまあ、真に受けないでほしいテキストを何故公開するのかという問題もある。私にもどのような意味があるのか、まだよくわかっていない。とりあえず書けるから書いてみようと思って書いているだけである。
なので、これを読んでいただいている方がもしいらっしゃるとするならば、この文章はあなたに向けたいところは山々なのだが、あまりそうなっていないだろうことを承知の上で読んでいただきたい。かといってある程度は面白いだろうと私個人は思うので、ぼちぼちお付き合いいただければ幸いです。

日本について

日本は国民主権だと憲法で謳っているが、実態を見てみると立法は内閣立法の割合が非常に高い。今年2023年の内閣立法成立数は58件、一方で議員立法成立数は13件だ。
ここから私は、日本は実態としては官僚主権だと考える。いくら国民が一生懸命投票して政治家を選んでも、その選んだ政治家はほとんど法律を作ることができないからだ。

少し話が飛ぶようだが、昨今の自民党の裏金問題について。
検察からは(検察庁も当然行政機関の一つだ)裏金づくりだと指摘されて政治家が検挙される。しかも作った裏金の金額がどの程度までになったら違法であるのかについて明確に法律で定められているわけではないので、かなり検察(=行政)が恣意的に検挙する。
もしやましいことが無いのであれば、きちんと法整備してどのように政治家が金を使うのが望ましいのかを定める必要がある。それが検察に政治家自身へ検挙させないこととなり、不祥事のない政治家による円滑な政治、立法は国民の利益につながるからである。これは政治家にとっても自分たちが検挙されないことに繋がるのだからプラスのはずなのだが、なぜか手がつけられてないように見える。

ともあれ、いずれにせよ現状はやはり官僚主権、すなわち官僚が立法している。こうした日本の形がなぜ許容されているのか。現状では私の直観に過ぎないが、日本が立憲君主制、天皇制を敷いているからではないだろうか。
つまり何らかの統一された権力者が日本を統治しているというメンタリティに親近感があり、それを変えることができていないということではないだろうか。国民の投票によって選ばれる政治家は国会内で政党別に分裂していて、彼らを権力者とみなすことが現状の我々にとっては実は難しいのではないだろうか。
無論、このメンタリティを即座に変えていけるなら話は早いのかもしれない。だがおそらくはそんなことはないだろう。即座に変えてゆけないのであればむしろ、この天皇制のあり方はそのままにしながら、上述のように政治資金についての法律をより具体的に詰めて公明正大にするべきだ。ひいては議員が議会で分裂していても、国民を代表している権力者として、つまり議員立法が多数を占めるような状況に持ち込めるような形を模索していく必要がある。

そのためには官僚制についての研究もさることながら、天皇制についても知る必要があると思われる。なぜならば、具体的な活動をするにあたって天皇制を傷つけるようなあり方が人びとに認められるとは考えられないからだ。できる限り天皇制を傷つけずに、しかも議会、議員の力が高まるようなあり方を模索しなければならないからだ。

メディアついて

現代都市社会に生きる人々において、メディアとはもはや人生である。お笑い然り、小説然り、音楽然り、テレビ、ニュース、ドラマ、映画、ラジオ、SNS、Podcast・・・。挙げればきりがないが、すべてメディアに関係している。文化はすべてメディアに吸収されてしまったと言っても過言ではないのではないか。

しかし、それでいいのか、などと言えればいいのだが、現実が正解である。文化はメディアに乗ることで高速に移動し、人びとを覆ってゆく。数多くの人びとに伝播することで経済性を増す。資本主義社会ともよく馴染むあり方だ。このような文化とメディアのあり方は人びとの効用を高める一役を担ってきたとも言えるだろう。

つまり以下でも書くのだろうが、都市住民の人間の実存とメディアは切っても切れない関係にあると言えるはずだ。現実を分析するための一つの道具としてメディアを研究しておくことは非常に重要であると思われる。

本質・普遍主義と構築・解釈相対主義について

さて、そんなメディア一色の実存でもって暮らす都市生活者たる我々は、極端な理解を往々にして持ってしまうのではないか。

かつて知のあり方は権力者、すなわち学者の手の中にあった。現在でももちろんそうだ。しかし現代では表現手法が多様化した。AIの進歩によって多数の専門的な知見がAIという一つの存在へと統一されつつあるようだ。
つまり、政治のことから有機化合物のことまで、数学的な操作は苦手だという情報もあるが、天体のことから言語学習まで、ことメディアに関わるすべてのことはAIが多くを担っていくことになるのかもしれない。
そうするとどうなるのだろうか。正確な知見はAIにおまかせ、人間はAIに質問するだけとなるのかもしれない。人間はAIに質問できれば良いので、より自由に、より無規定なあり方が追求されるのかもしれない。

現代では社会問題や人権問題がより叫ばれるようになった。メディアの自由化、スマホなどのコンピュータの浸透(スマホとは小さな多機能コンピュータである)によって情報はより高速に、しかもマーケティング的にセグメントに区切られた人びとへ効率よく伝達されるようになった。
そうすると、人それぞれに別々の情報が流れてゆくことも十分ある。陰謀論を信じ込んでしまう人がいるのも良い例だ。そうした人びとを止めることができないという話もあるし、実践的には信念へ依存する人に対しては見守っていく、困ったときに手を差し伸べる以外の方法はないのかもしれない。
とはいえ、そうした「方法」が様々に語れるのを見るにつけ、結局どうしたらいいのか、何らかの答えらしきものがあると言えそうである。

このようにして、人びとの別々の情報は「人ぞれぞれ」な相対主義を生み出していく。解釈が人によって異なるので解釈相対主義とでも呼べそうである。
こうした解釈相対主義は構築主義からの流れを汲んでいる。物事のあり方の裏側にはその歴史や背景が存在する。どのように物事が構築されてきて、現状として立てられているのかについてを調べ考えてゆくのが構築主義である。こうした考えによって形作られる事柄は細かく分類分けされるので、それぞれが個別に認識されることになる。

一方で人間の認識というのは不思議なもので、扱えば扱うほど数が増えて、その本質とも受け取れる箇所が浮かび上がってくる。そうするとそれは本質主義である。その本質がある条件下であれ、全世界に適用できるとするならば普遍主義となる。

さて、では本質・普遍主義と解釈相対主義を俎上に載せるとして、どちらが一方でも偏ることに問題があることは先程も触れた。本質主義に触れすぎても、解釈相対主義に触れすぎても、どちらも独善的になってしまう。
誰々は男だから、必ず力強く主張する心を持っている、持つべきだとするならば、本質主義に触れすぎていて迷惑な話だ。一方で私は男らしさを持っていて、一方で相手は女らしさを持っている。お互いの性質を考えれば作業を統一させることなくバラバラに行うべきだ、とすると、作業の協力関係が難しくなってしまう。どちらも結局は誰かが不利益をこうむることになる。

ここで持ち出されるのが話し合いである。話し合いによって本質・普遍主義と解釈相対主義は調停される必要があるという話になる。しかし、それもどうなのだろうか。
もちろん話し合いによって調停される部分もある。その部分に関してはそれでいいだろう。しかし話し合いによって調停されない部分もあるのではないか。あるいはいつだって話し合いがうまくいくとは限らない。ある一方でも納得いかない話し合いが行われたら、それぞれが再度独自に思考し始めて主義に偏っていくことになるだろう。

さて、だとしたらどうやってうまくそれぞれの主義は折り合いをつけることができるのか。その中庸とはどこにあるのか。以上がこの論点での現状の気になる部分である。


つらつらと気になる点を書いてみた。今回は以上。

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