『梟ーフクロウー』
今日も映画を見ました。
友人に紹介されて見た。フクロウは出てこないとその人は言っていたけれど、きちんと出てきた。
この映画は朝鮮(つまりは韓国、といってもおよそ差し支えない)の歴史物なのだが、いきなり話を少し飛ばしてみたい。
現代日本においては境界知能が昨今頻繁に取り上げられている。
また、発達障害やグレーゾーン、ボーダーという言葉を使って知的なレベルを場合分け、それぞれに該当する人々にどのようなケアが必要なのかが議論されているようだ。(※)
これらの人々の問題とは何か。それはわかっているようで、わかっていない、またわかっていないようで、実はわかっているということが日常において頻繁に起こることである。
当事者だけがそのようにわかったり、わからなかったりするだけならまだ良いだろう。しかしそれだけではもちろんない。その知的能力の曖昧な人の周りにも当然人がいる。わかったりわからなかったりすると、周りの人がその人をどう扱ったらいいのかわからなくなってしまう。そうして曖昧な人は社会的に孤立し、困ってしまう。
さてこのようなグレーゾーンや境界知能のような問題は、過去をさかのぼっても起こっていたのだろうか。起こっていた、とするのが映画『梟ーフクロウー』の物語の始まりである。
時代は李氏朝鮮。1600年代。(ちなみに日本は江戸時代である。)主人公ギョンスは目が見えない。見えないのだが、見えるのである。
どういうことか。目が見えないとひとくくりにしても、症状は様々だろう。光を全く受け付けなくなってしまう病気なのか、光は感じるのだが色が見えない、また光も色も受け付けるのだがレンズの焦点が合わないということだってあるだろう。
ギョンスは現代でいうところの単なる近眼なのであった。西洋の文物を受け入れない李氏朝鮮には眼鏡が珍しかったようだ。
見えるのにわざわざ見えないふりをするのはなぜなのだろうか。
作中でギョンスは盲人が見えてしまうと周りの人間が冷たくしてくるという。周りの人間は見えない盲人を単に見えない人間として扱いたいのだろう。盲人は見えないのだからこそ、見られたくないことをさせることができる。盲人を手段として扱いたい人の欲望をうまく乗りこなすことで、なんとか卑しい身分のギョンスは生き延びてきたのだった。
清に敗れたにも関わらず清を受け入れることができず、ひいては西洋文化を受容できなかった朝鮮史の汚点、王族の醜い争いや悪王に依存する将軍をサスペンスとちょっとしたコミカルな表現でさらけ出す。
夜の細い光明がまるで針のように突き刺さり、梟(フクロウ)が真実を語る、そんな映画でした。
※カイエンという企業が記事としてまとめていてわかりやすかったので、興味がある方はご覧いただきたい。
【セミナー解説】医師に聞く「発達障害と境界知能」
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