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「歎異抄」を読んでみよう(4)


歎異抄を好き勝手に読んでみようという企画です。第一条の続きです。

信念とはこういうものだ

歎異抄に魅せられるのはその言葉の力強さにあります。読み始めた人は、いきなり第一条の言葉でその洗礼をあびます。

 しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべ き善なきがゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと云々。

親鸞聖人はキッパリと念仏の前には「善」も「悪」もない。善悪を遥かに超越したところに本願があるのだと言い切ります。
本願は阿弥陀仏の願いです。「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願」であります。

人間とは・・・

阿弥陀仏にとって、人間とは「罪悪深重・煩悩熾盛」そのものであり、「善」も「悪」もその結果であるのです。
「善」行おうとしても、どこかに「やってやった」の意識から逃れられず、「悪」を行っても「他人のせいだ」と考える。
人は何をやっても阿弥陀仏にとっては救うべき衆生なのです。
ところが、私たちは、そんなことを言葉で聞いても実感がない。
「へー」そんなもんですかねぇ。と思う。
しかし、親鸞聖人は言い切るのです。
その姿、あり方に感銘するのです。
この人が行くなら、この人が信じているなら何かあるのではないか。
そう思う人が親鸞聖人の言葉に耳を傾けるのです。

逃げる親鸞

ところが、そんな親鸞聖人についていこうとするといきなり逃げられます。
ヒョイっと身を翻して逃げてしまうのです。
ただそこには
「南無阿弥陀仏」
だけが置かれている。
これを信じろと放り投げられる。
信じようとすると、それはただの6文字であると言われる。
意味がわからない。
納得しようとあれやこれや考えてわからなくなる。
わからないから自分で調べる。修行っぽいことをしてしまう。
それは自力だと、自力の何がいけないかがわからない。
人のことが気になる。なんでお前らは平気で生きているのか。
辛い、苦しい、逃げたい、救われたい、教えて欲しい、納得できない。
しかし、親鸞聖人は超然とそこにいらっしゃる。
その繰り返し。

そんな感じで第二条に進みます。

解説は
歎異抄・執持鈔・口伝鈔・改邪鈔 <東洋文庫 33> 石田瑞麿 訳
を参考にしています。

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