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いのちをあずける覚悟はできている

島根県に中国人94人が密入国

1994年(平成6年)5月12日, 多伎町小田で中国人94人が密入国
不審な外国船の甲板に集められ、事情聴取を受ける外国人=12日午後0時45分、島根県・多伎町沖約4キロで共同通信社ヘリから(密入国)(島根県沖の密航船)

もう26年前になります。松江刑務所で勤務していた時です。
当時は、福建省からの密入国が頻発していて、その初期の事件が島根県で発生しました。
確か、休日であったのですが、松江刑務所の全職員に非常召集が告げられ、私も登庁しました。
所長の話があるというので体育館に集合がかけられ、訓示が行われました。
「密入国した中国人を当所で受け入れることになった。収容施設としてこれを拒否することはできない。全員一丸となって対応するように」
ということでした。

中国人集団室の担当になる

各職員に役割が与えられます。私は密入国中国人の集団室担当に指名されたのです。
密入国者を集団にして拘禁することを今はやっていません。蛇頭という密入国請負業者に大金を払って、船底に隠れて日本海を渡ってくる若者です。
中国の一人っ子政策で、国民として登録されずに生きてきた人たちです。
いきなり日本の官憲に拘束され、刑務所に入れられたらどんな行動にでるか。
それも6人から8人の集団にしたらどうなるか。
想像したらわかりそうなものですが、当時は緊急事態でともかく捕まえておくというのが現実でした。
もちろん中国語を話せる職員はいません。(その後、この反省を踏まえて育成も行われました)
民間の中国語翻訳者も海保の取調べでこちらには来られません。

現場の惨状

部屋に入るとまず横になって寝る、泣く、叫ぶ、歌う、暴力と怒鳴り声と金属の扉を叩いたり蹴ったりする音が一晩中続きます。
職員に殴りかかる、自傷行為を行ったり、自殺しようとしたりすれば保護房に収容します。
最後は部屋が足りなくなり、革手錠をして部屋に並べて座らせていたり、いまでは考えれないことも行いました。
風呂に入れようとしても一人に3人くらいの職員が必要です。
当然、私も殴られたり制圧したりしました。
さらに、職員は中国人にだけかかっている訳にはいきません。日本人の受刑者も多数収容しているのです。
中国人が何かすると、担当者である私の方に全部話が来ます。
なんでかんだで10日くらいで片言の中国語が話せるようになり、辞書を引きながらですが手紙の翻訳までしました。
最初の1ヶ月で5キロ体重が減りました。毎日、0時過ぎにうちに戻って、翌日は6時に家を出る生活が3ヶ月続きました。

支えていたもの

ただ、ただ、疲れた体をひきずって、目の前のことに当たっていて、考える間もない状況でした。
どれだけのことが起きているかは当事者が一番わかっています。自分が逃げればどうなるか想像がつくから逃げられませんでした。
弱音を吐けば、次には立ち上がれなくなるから決して愚痴は言いませんでした。
夜中、自宅に帰る途中、少し小高い丘を通ります。
眼下には家々の明かりが灯っています。
毎日、それを見ながら、
「俺が頑張ってるから、あの灯の下で幸せにくらしている人がいる」
それが支えでした。
決してほめてもらおうなどと思ってはいませんでした。

医療現場のみなさん。政府の職員のみなさん。関係者のみなさん。
私の少ない経験から考えても、使命感だけに支えられて、ギリギリのところで頑張っているはずです。
ありがとうございます。感謝してもし切れるものではありません。
もし、みなさんが倒れれば、私たちにはどうすることもできません。
ですから、みなさんにすべてお任せします。
私にはその覚悟ができています。

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