見出し画像

「歎異抄」を読んでみよう(6)

その2 中段

わたし (親鸞)は、「お念仏だけして、阿弥陀さまに救われていきなさい」という 法然上人のお言葉を信じているだけなんですから。お念仏がお浄土に行かせて いただけるプラチナチケットなのか、それとも地獄行きの片道切符なのかは、 わたしには分かりません。わたしが考えてどうこうなるもんじゃないですしね。 それに、たとえ法然上人にだまされて、お念仏で地獄に行くことになったとしても、 後悔しちゃいけませんよ。だって、一所懸命にお念仏以外の修行をして、悟りを 開いて仏になれる予定だったのが、お念仏のせいで地獄に堕ちた、って言うなら 「だましやがって!」てなことになるけど、もともと修行なんかできないような 人間なんだから、地獄は私の実家みたいなもんなわけよ。

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、 よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきな り。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、また 地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるな り。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちた りとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげ みて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はば こそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

習志野市高山寺HPより

いづれの行もおよびがたき身

親鸞聖人が、他の宗教指導者と異なる点としてあげられるのは「自己嫌悪」と「罪悪感」に徹底的に向き合ったことにあります。
よく紹介される「肉食妻帯」もその末に至った結論です。
それは、 一休禅師の無頼とも違います。
当時の仏教界のあり方とそれを良しとしない自身の葛藤。その一方で、決して消えない自身の煩悩の執着。法然上人への思いと朝廷への怒り。
様々なできごとを経ても、なお、法然上人と本願の教えに誠実であろうとした姿勢が親鸞聖人を作ったと言えます。

親鸞聖人の姿

残された肖像画をご覧いただければわかると思いますが、親鸞聖人のお顔は大変に険しいものがあります。
温和であったり、優しそうであったりなどというところは全くありません。
その刻まれた苦悩は、他者に向かうのでではなく、自分自身を追い込んで追い込んで、その結果なのです。
たどりいた先が、
「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」
なのです。
私は地獄の住人である。という自覚と覚悟が後の「悪人正機」へ続きます。
親鸞聖人のお姿を思い浮かべる度に、
「お前はどうだ、覚悟はあるのか」
と問われている気がするのです。

解説は
歎異抄・執持鈔・口伝鈔・改邪鈔 <東洋文庫 33> 石田瑞麿 訳
を参考にしています。


スキ!♥️押してもらえたら感謝!感謝!支援していただけると超嬉しいです☺️