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そうなのか

今日はわらじに行ってきました。
わらじは、私にとってサードプレイスだと思っています。学校でも、家でもない、居場所。

学校も家も居場所ではあるし、どれかがめちゃくちゃいやなわけでもないのだけど。2年生くらいからちょくちょく関わってます。

なんとなく今だ!って思ったので荘についてのnote書きます。


なぜ行くか。

行く目的として、これ!っていうのはあんまり決まってないですね。時と場合によってちがいます。(そりゃそうか)
今日はなんとなく話しに。もう少しで函館出るので。そんな感じで行ったらまたおもろかったです。

そんな感じでいくわらじですが、1回だけこれしたい!このもやもや収まらない!ってなって泊まらせてもらったことがあります。その時は自分軸探さなきゃってなって、対話したい。問われなきゃわかんないかもって駆けつけました。
その時のnoteはこちら

https://note.com/kanau_pyon/n/n601731d05671

まあ、大体もやもやしながら行ってる気がします。そういう時は自分のノートに自分なりにいっぱい考えて、書いたものをもっていきます。これ話そって思いながら行って、問われて、どうなんだ?これかもしれない、ちがいますかね?とか言って、そうなの?どうなの。とか言います。
これ!っていう結論は出ません、大体。自分のことで“もやってること”が多くて、こうかもしれないなあ、どうなんだろうなという問いだけ残り続けて、時々振り返ります。でも、自分では自分のことわかりきれないから、ずっと問うんだろうな。自分のことって全然分かるって思いたいけどわからないこと多いよね。

かなうにとってどんな場所?

よく聞かれることですね。直接聞かれることは少ないが、友達とかに言うときに、私にとってという話をちょっとだけします。

さっきは居場所って言いました。言ったはいいものの、居場所がなにかはあんまり分かってません。でも、安心感あって、ほか(家や学校かな)より自分として認識してくれる気がします。だから、居場所って言いました。

そうです。しかも、やりたいこと応援、というか実現しちゃうところです。(言い方あってますか?伝わってる?)
いろんなことできました。喫茶やったり、イベントやったり。これやりたい!って言ったこともやろ!って場所かしてくれて、フィードバックしてくれます。これ高校生やったらおもしろいよ!って喫茶できちゃうっていう。こんな場所なくないですか?!応援までは分かるけど、実現させてくれて、なんかやばいな(笑)できるっていう体験ももちろん特別です。しかも、振り返りまでがっちりさせてくれて、振り返りの方も大事!っていう気づきにもなりました。まって!書いててたしかに自分の中で学校や家じゃできない役割!?って今になって自分で思いました。

しかも、めちゃくちゃ人と会えるんですよね。行く度、だれがいるのかな〜ってわくわくしてます。笑 住んでる人もたくさん居るから、だれにあえるかなって。来る人みんななんかおもろいひとばっかりで、話すと知らなかった世界が近づいてわくわくしたり、知らない土地の心の距離が近づきます。高校生ってことで面白がってくれる人もいて、でもちゃんと話してくれていつもうれしいです。もともと話すの好きっていうこともあって、楽しいです。

(ここらへんのこともうちょっと書きたいなあ、もっとある気がするなあ)ということを一番最初の下書きに書いてありました。ここで出会った人のひとりひとり、一回一回書きたいのかもしれません。

いつも電車で50分かけて大変じゃない?!って言われるけど、それを超えるこれらがあります。

なにがそうさせるとおもう?

私は住んでません。けど、住んでなくとも忘れたころにやってくるくらいの高校生でもいれる雰囲気。だと思います。その雰囲気ってなんだっていうとやっぱり一つじゃないと思うのですが、靴脱いであがること、ほんとに住んでるっていう生活感、とかですかね。かっちりしてないのが、学校とも違くて、いつもとはちょっと違う自分が出る気がします。

これ、ほんとに考えるの難しいです。でも、ノリって大事だと思います。どういうノリかというと、なんでも受容するノリ、ですかね。ほんとに”なんでも”かはわからないけど、そう思わせてくれます。

ほんとに難しい。でも、わたしは開かれてるからだと思います。オープンな場所、ノリが好きです。

学んだ

荘で学びってたくさんでてくるじゃないですか、なんかわかるんですよね。教わるでもなく、習うじゃなく、学ぶ

自分でノートかいて自分会議みたいなことすること、問いって難しいけど大事なこと、対話という概念、ひとりひとりの文脈ってあるよね、なんかやりたいのなんかって今までの自分にちりばめられてるかも、とか。

特筆するものでいうと、自分と他人は違うということ。私はこうだし、あの人はこう、あの人はあーだよね。みたいな。絶対全部一緒の人っていないんです。でも、重なるところもあるかもね~くらいに考えてます。で、重なるとこ多かったらめっちゃ喜ぶ的な。こうみるとドライかもしれない(けど、愛だけぶつけるくらい好きなもの・人もあるよ!っていう注釈は入れときます。笑)

学んだもので、一方的なものってない気がします。でも、聞くことはたくさんするかもしれません。これはこういうことですか?それってこういう意味ですか?う~ん、あんまりわかってないかもしれないんでもう一回言ってもらっていいですか。大事にしてたかも、それか、大事のするようになった。相手の言葉を咀嚼する、という感じに。

その学びが、人生の学びかそういわれると人生っていうほど大げさなものじゃないけど、大学行っても大切にしたいなっていうものだなって思います。

自分と区別することで、かなうという自分を大切にできる気がします。たぶん

この春から長野

函館で生まれ育ち18年。進学で長野に行きます。大好きになった函館をでるのはさみしい、当たり前にあった函館山、海が見られないし、親と同じくらい気にかけてくれるみなさんと遠くになってしまうのが悲しい。

でも、学んだこと、感じたこと、お!って思う感覚みたいなものは遠くなっても、むしろ新天地でこそ発揮していきたいと思います。今は働くことと場をつくることに興味があります。考えたり、対話したり、手とか足動かしてもがいてみます。

私は大学の目標が、学校のパンフレットに載ることと函館まで報告できるようなわくわくすることをすることです!

一か月後違うこと思ったら、また言いますね。

今の気持ちだったり、これまでを書いてみました。多分これはいつかのかなう向けです。四年間でこの文章がかなうのためになる瞬間があると思います。そんな時はこれとか、泣きながらかいたノート見てください。どんな風かはわからないけど、役に立つよ。うん。がんばろ。幸せ者だな、わたし。



追記

題名は特に意味がないけど、ダジャレです。荘なのか、とそうなのか(わかったぞみたいな)のをかけてます。そういうクスリって笑う感じすきです

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