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今に生きる早期広東語を学ぶ【The School of Cantonese Studies 2024】

香港教育大と都會大がこの8月に広東語コースを開講。私は香港に来て6年あまりですがここ数年全く広東語の勉強をしていなかったので初心にかえるつもりで受講、久しぶりの大学通いとなりました。

この講義は教授法のプロの先生方から特訓を受けるというものではありませんでした。参加者も香港生まれの香港人、言語の研究者が主でした。私は言語について素人だし一介の広東語学習者として、自分のためにここに簡単に記録しておきます。

認知

まずコミュニケーションとは?認知学的な部分から普段使っている広東語に対する気づきや他の言語の影響についての授業から始まりました。

錢志安教授のExploring the Interplay of Language, Culture and Society。言葉というのはをただ並べても意図することがわからない時があります。話されている意図を知るためには日頃からのコミュニケーションの仕方を知る必要があります。

「チャイムが鳴らなかったら声をあげて運転手に教えてくれ」はチャイムが鳴らないことを伝えるのではなくバスから自分が「降ります!」と声をあげてくれ、ということなんですが、言語は想像力と状況判断力とも言えるのでこの手の例文はよく耳にします。なんて事のない例ですが現地で生活するという事はこういう地味なイベントの積み重ねです。ミニバスも路線によって細かいローカルルールがあり乗ってみないとその違いがわからないと思います。大都市でありながらローカル味の強い香港の真骨頂の一つです。


早期広東語の語彙


また教育大の片岡新教授のEarly Cantoneseという授業では100年以上前の広東語を紹介、本人も外国人の広東語研究者として当時の広東語話者の外国人が編纂した辞書などの例を話してくださいました。(福沢諭吉の《華英通語》の中国語は広東語です)

香港の広東語が意識されたのはおそらくこの地がイギリス領になった前後からだと思いますが、その時香港に住む華人は一体どうやって英語を学んだのだろう?彼らが英語を学んだテキストの中に中華文化を反映させた意訳と香港式英語の誕生を感じさせる音訳が載っています。

片岡先生

英語の発音を勉強するテキストには、talksのsは時(発音はsi4)と表記されているうえに、フォントサイズも小さいです。完全に音訳のニュアンスのみの英語発音は広東語脳にならないと解読できないでしょう。

逆に英単語の意味を学ぶ際にはJanuaryのことを十二月、そして英正月と言っています。香港の暦は以前は完全に農歷だけで動いていたので正月と呼んだらすごく変なのです。

咖喱のことはかつては黃薑(ターメリック)と呼んでいたそうです。香港広東語は英語からの音訳が多いですが早期広東語時は本当に英語がわからない段階だったので意訳が意外と多いのかもしれないです。

発音

International Phonetic Alphabet(IPA)で香港人が何気なく発している音の構造を意識し(例:後鼻音ngはŋと表記、低い音になる傾向があるなど)、香港の地名の英語表記でも使われている港府粵語拼音について考えます。

Hong Kongが何故Heung でないかは入植時に香港島にいた原住民・蜑家人が話した蜑家話にeuの発音がなくoだったからというのは広く知られています。“香港で今も使われる、そして文書で表記されるのは決して現代広東語とは限らない”という事実です。私達が使っている広東語には様々な人、言語の影響が集約されています。例えばM記を港府粵語拼音にするとmak keeとなりますが、これはかつてeiの発音はiだった事が影響しています。(単純にeiに変化した広東語なのか、それとも特定の誰かがかつてiと言っていたのか気になります)
有名な《新安縣全圖》にも筲箕灣の発音はshau ki wanとあり、keiをkiと発音しています。

amの発音も港府粵語拼音だとomとなります。om表記は地名でよく目にします。手紙を書く時や政府関係の文書を書く時、基本英語で住所を書く事が多いのでこの違いを知っておくと生活する上で地味に便利です。

語彙、発音、声調は時代と共に変わりますが、100年前に孫文が話していた広東語は現代の香港の広東語でまだギリギリ認知されています。

1924年の孫文の演説には咗にあたる部分を嘵hiu1と話しているのがわかります。(youtubeに音声あり)百年前の広東語ですが今でも香港に暮らすお年寄りには嘵を使う人がいるし、嘵という言い方がある事を知っている香港人はいます。
また、ORの意味であるA定Bの構文の時、A嚊(be6)Bと言っていたそうです。

他にも処置文で使われる拿,用,將は以前は全て𢬿kaai5だったという…。個人的に將を使えるまでに時間がかかったのでこう簡単に使いこなしている例を見てなぜかしっくりくるものがありました。難しく考えてはいけないのだ。

唔で止めるのなんか凄い

広東語特有の Yes-No Question 構文の昔の言い方は「食唔食飯呀?」ではなく「食飯唔呀?」となり唔止めが凄いです。

これらをまとめると100年前の広東語はこんな感じとなります。

現在:你去唔去過筲箕灣睇戲?
早期:你去嘵筲箕灣唔睇戲?(ni5 hyu3 siu1sau1 ki1 wan1 m4 tai3 hi3?)

hyuの発音があまり馴染みがないのでいまいち発音に自信がありませんが……。でもまるで客家語を話しているかのような気分になるので是非やってみてください。


鏡象形成

広東語の特徴として繰り返しの表現がたまに見られると言う話がありました。
私は以前、同じ事を繰り返してはいけないと習った気がしているんですが、現象として認められているっぽいです。

広東語にはルールがないとよくネイティブの人が言ったりするのでそんな事あるわけないだろと思うんですがある意味そうとも言えます。唔止めが可能で今はもうその表現は使わないと言う点も、広東語の緩さやフレキシビリティを感じます。つまりは伝わればいい、という言語だし多少崩れが起きても意味がわかる言語です。

マレーシアの方がたくさんの言語を使い分けることができるけれどそれはその土地のダイバーシティの多様さと、コミュニケーションが取れれば良いというスタンスに支えられている事と似ています。言語は自分流に使ったもの勝ちなんだ。でも一方で広東語は厳しい声調がある、声調が自由さを保証しているとも言えます。まるでどこかの経済特区みたいですが……。


地名

元来香港広東語は客家語の影響がとても強いです。地名は特に影響が強く、今でも普通に客家語由来の地名が使われています。

新界の内地や山の麓に客家語の地名が多いのは香港にやってきた時期が関係しています。例えば、宋の時代にすでにこの地にやってきていた鄧姓などの五大族である本地人は粤語を基本とする圍頭語を話し、畑を開墾しやすい元朗などの平地に住みました。

遅れてやってきた客家人は山頂や麓、谷に住みました。そのため今でもこのような地形の場所は客家語の地名がそのまま使われています。大埔が客家の街と言われるのはそのためです。

羅湖には湖がないのになぜ湖なんだろうと思いますが、客家語と閩語では湖は盆地を指します。なぜなんだろう?と思った時、“広東語”の枠から離れて地形とかその土地に暮らす原住民に想いを巡らすことで謎が解ける事があると思います。

これは間違ってしまった使い方で、屋というのは本来客家語ではvillageの意味もあります。よって三棟屋村は村の意味が重複しています。屋まで含めて地名として名詞化して馴染んでしまった例だと思います。

イディオム

イディオムについては昔のテレビドラマにたくさんの表現が記録されており、都會大ではアーカイブ作業が行われています。

真係鹹濕は正式鹽倉土地と言ってわざと隠語化させていますね。

広東語のイディオムはテレビの普及に伴って会話劇が流行り始めた時に特に豊富になったのではないだろうかと想像します。すこしばかり面白おかしく言う、ドラマチックに言うなど、現代広東語が形成される中での豊かさを肉付ける過程の一つだったと思います。

このような広東語の知識は年配の方や知識を持つ方との会話、深夜にTVBで放送されている広東語ドラマを観るのに非常に役に立つと思います。エンタメ畑の方なら知っている表現も多いのではないでしょうか。

香港本土語言

広東語のIMEであるTypeduckの開発者の劉擇明さんの講義の中で特に面白かったのは、香港にはごく狭い地域でのみ使われる香港本土語言もあるのいうこと。

香港極東の地・東平洲語がまだ存在するらしい。東平洲にはもう人は住んでいないれけど「彼らが移民した大埔の、廣福道のマクドナルドの裏の唐樓で麻雀をやっている一室があるからをそこに行けば聞けるよ」とのこと。私にとっては明日の広東語でこれぞアドバンスド、有得用就好だ……!


まとめ


廣福道の唐樓の麻雀をやっている時のみに話される言語を、香港の学者は研究しようとしている。広東語は習う機会が少ないのが最大の問題と言われていますが香港に於ける広東語研究は彩りどりに満ちていて多方面からアプローチされていると感じました。広東語の未来は言われているほど暗くはないのかもしれないし、研究者は誇りを持って楽しく広東語を研究されているようでした。
私自身としては地道に好奇心のままに語彙やイディオムを増やしてもっと豊かな広東語を話せるようになりたいですね……!

参考文献

《晚清民初歐美傳教士書寫的廣東話文獻精選》片岡 新、李燕萍著 (2022)

《The Map of San On》by Volonteri (1866)

《Tonic Dictionary of the Chinese Language in the Canton Dialect》 by  Samuel Wells Williams (1856)

《EARLY CANTONESE》by Kataoka Shin
School of Cantonese Studies 2024 (12-15 August, 2024)


《孫文 救國方針》(1924)
https://youtu.be/LjwVRrQ-BcE?si=2O8Aby2JCUpcGCoe


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