強くなりたくないという恐怖症
東京に住んでいた時、元夫は仕事が忙しく躁鬱を抱えており家事があまりできなかった。一方私は家事は全般できてしまうし、仕事との両立もできていた。しかしこれからこどもを産んで育てていくとなると私1人で頑張る事なんて到底できるはずがない。
そんな不安から、家事が完璧にできないフリをして不完全な妻でいたいと願う様になった。料理ができない人が羨ましいと思ったりしていた。
1人で家事を切り盛りし、不完全な夫をたてることはしたくなかった。私は不完全な2人が一緒に協力して生活する事を望んでいた。いわゆる、強い妻になりたくなかった。この国は、強い妻が夫に家事をさせない構造を作り出しているのではないかとずっと思ってきたからだ。
しかしそもそも強さとはなんなのだろう。香港で1人で住む今ですら、強くなりたくない、と望んでいる自分がいる。精神的にも誰かに甘えて生きた方が楽なのではないか、と思ってしまっている。
家族は甘えが許される場所だと勝手に思い込んでいたのかもしれない。私は今日の日本のジェンダーや家族観の呪いに自分が縛られていることに気がつき始めた。殊に日本は、甘えという魔法が各家庭に呪いの様に付き纏っている。
香港で1人で暮らしていると、プレーンになれるというか、モヤモヤした何かから解放される。特に香港の村に住んで農業と接していると農暦や二十四節気が自然とまさに同じである事に感動する。
それなのに、それでも度々、東京時代の彼との生活を思い出して、あの時こうすればよかった、とか考えて泣いてしまう。
ベランダで洗濯物を干している時、突然、香港の風が私に語りかけた。「かなちん、1人でなんでもできるならそれでいいんだよ。寂しいのはどうして?それは弱いふりをしているだけなのではないの?無理して弱いふりなんて、しなくていいんだよ」
私の手が止まり、風がそよそよと吹いている。弱くありたいというプライド、なんだそれ、私はもうそんなものが必要な世界にはいないんだ。香港の自然の中で暮らすと、自然はたまに私に真実を届けてくれる、小出しで。強いというのは本来、自然体でいられる事と同義語な気がした。私は今自分らしく生きているだろか。自己が確立するのはまだ先な気がするけれど、ちょっとずつできている様な気もする。
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