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祖母の葬儀 夏休みが終わるまでの天国

エッセイ② 昭和52年~

鹿児島に何度か遊びに来ていた頃の記憶

 鹿児島に来たとき、私小6 弟小4 妹5歳

前編のさわりから↓↓

いきなり小6のあと3日で夏休みとなるという学校の体育館の

林間学校へいく説明会の途中で「オバアチャンが亡くなったから

もう家に帰りない」担任からだったか、そういわれた私は

クラスに戻ると、仲良くしてくれていた生徒たちもクラスに帰ってきた。

 私よりも友達数人に泣かれて身に付けていたものもその場でもらい、私は

涙も出ないほどなんか、違う世界で起こっている何かドラマか映画を

観ているような感覚だった。

 父は六人兄弟姉妹のど真ん中。でも戦前戦後の頃で父は次男でありながら

祖父母の結婚のときの約束で長男は祖母方の実家の名前を継ぐということで

長男だけは、亡くなった祖母の実家の苗字を生まれたときから継いでいて

父は次男だけど戸籍上長男であった。

 祖母の葬儀で祖母の家に帰ってきたのは、そのころの私の人生の中では多分、4回目くらいだったと思うのだけど、正確には、あまり把握できてない。記憶にあるより写真で見たというのが正解だからだ。

 一回目は、まだ一歳くらい。白黒写真で洗面器に入っていて昔の祖父母の高床式みたいなつくりの土間が土で台所も土間の羽釜のようなものだったくらいの作りだったのかもしれない。

 二回目は、幼稚園の入園式の寸前に父が大工だったこともあり、実家を建て直すために一人で先に鹿児島入りして、あとから私たち三人で何かしらの交通手段で鹿児島入りしたようだった。なぜか、まったくそのころのそこの記憶は、ない。

 まだ祖父の兄弟姉妹も元気で父の従妹たちも家の周辺に昔からずっと住んでいたこともあって、それはそれは、来る日も来る日もとその人たちが手伝いに来てくれていたのだと想像した。記憶にあるのは、牛を隣の棟に飼っていた牛舎の二階にそこの家ができるまで、そこに寝泊まりして母は、家が出来上がるまで「お茶だし」をしていたのと、トイレも当時は外の離れたところに今のトイレとは全く違う形のものがあったのだろうけど、暗くて怖いからと、牛たちがいる牛の糞もあってヌルヌルしたところの排水溝にまたいで用を足した記憶がある。

 その時は私が入園式があるということで、みんな総出で私と母と弟を寝台列車まで見送りに来てくれて私たちは兵庫に帰っていった記憶がある。 まだ妹もこの世に存在しない四人家族だったころのこと。

 三回目の来鹿は、低学年か中学年の頃だった気がする。夏休みで父だけが白い当時の最先端のカローラを運転して往復陸路を運転していったような

記憶。それとも片道だけは、サンフラワー号だったのか、定かではない。

帰りの陸路の記憶だけがまだとても鮮明にあって、長い夜で後ろの座席にバスタオルをかぶって弟と寝ろと言われて寝転んでいたけど、ぐっすりと眠れるはずもなく、暑くて辛かった記憶。

きっと車内にエアコンすらなかったのだと思う。その時の帰路が人生の中で一番家族旅行って記憶。そのころには、妹もいて小さかった気がする。

山口県の秋芳洞の洞窟に入って夏休みの思い出にも書いた記憶。

 その後の来鹿が私の記憶でその葬儀のつもりなのだけど写真には

私の母親の母である祖母と私たち家族四人で桜島などの前で記念写真が

残っているので、母方の祖母も大阪から初めて娘の嫁ぎ先に連れていき

それはきっと、それが最初で最期だった祖母との遠出だったかもしれない。

 祖母の葬儀の頃の記憶

 葬儀の話に戻ると、当時、父の弟が独身で本宅の隣の隠居と呼ばれていた

新築で建てたばかりの建物に祖父と叔父は私たち家族が帰ってきたことで

暮らすことになった。本当は祖母のためと作ったのかもしれないのだけど

いつだったか、一度も新居に入れずにこの世を去ったと聞いた記憶がある。

 父がやはり建設したということだったのだが、そのことの記憶が全くなく、いつの日には、また母にしっかりと聞いてみたい人生の出来事の疑問点である。

 葬儀は、連日、知らないたくさんの親戚が本宅に訪れ、毎夜、たくさんの

親戚たちと寝起きをともにして、もしかしたら一週間近くだったのかもしれないのだけど、一日一日がとても長くて一ヶ月くらいの長かった記憶となっている。

  次につづく

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