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役病1 新しい生活様式

① ヒトとの距離をとる。

② 遠くへ行かない。

 この二つは新たな行動様式として人類に定着していきそうな気がします。そして、集団から個へ、拡大から縮小へ、という変化が訪れることでしょう。

 ヒトと野生動物は本来、交わることなく棲み分けていましたが、野生動物の生活域を侵すまでに森林開発を進めてしまったために、21世紀に入ってからSARS、MERS、鳥インフルエンザ、エボラ出血熱などの動物由来の新興感染症が増えています。人口が減少して、ヒトと野生動物の接点がなくなるまで、ヒトは動物由来のウィルスの攻撃を受け続けることになるのではないでしょうか。

 それは百年か、あるいはそれ以上の、かなりの長丁場になるかもしれません。自粛生活が長引き、多数の犠牲者が出るなど、負の記憶を持てば持つほど、行動様式として定着していくでしょう。また、他人との接触を求め、遠くへ出かける人ほど感染しやすく、こういった方々が淘汰されれば、行動様式として定着していくはずです。

 しかし、出来るだけ早く定着させるべきではないでしょうか。

 聖なる沈黙といって、言葉を発することを禁じている、キリスト教や仏教の修道院があります。ソーシャルディスタンスをとると喋ろうとする気がなくなるだけでなく、マスクをしていると喋りにくいので、言葉を発しなくなるのではないでしょうか。

 ヒトの唾液と呼気が入り混じった飛沫が、目には見えなくても2メートルほど霧のように、もわもわっと広範囲に吐き出されているのが AIの解析によって明らかとなっています。しかし、それが見えないと、あまり気にならないようです。また、一旦、唾液が吐き出されたり、髪の毛が抜け落ちたりすると、汚い、不浄なものと認識されますが、その本体である人間の身体そのものについてはそのようには認識されてきませんでした。でも、体内には糞便その他の汚い粘液質のものが渦巻いていて、皮膚の表面にはいろんな分泌物が付着しています。

 海外で日本人が、皆が見ている前で、素手で握り飯を作って振舞ったところ不評で、誰も食べてくれなかったそうです。寿司をさらっと握るのとは違って、かなり念入りに握り込んでしまうことに原因があったのでしょうか。

 ヒトを、ウィルスをまき散らす存在として認識し、距離をとる習慣が長引くと、人の身体を汚い、不浄なものと認識して避けるようになるのではないでしょうか。そして、不浄と認識されるのは身体だけなのか。

 大声で他人を罵ったり、暴言を吐いたりすると、実質的に唾を吐きかけることになりますが、怒りによる破壊的なエネルギーまで相手に届いてしまうのではないでしょうか。

 自分の心と体を不浄と認識して、出来るだけ清浄に保とうとするのは悪いことではありません。自分の中にある汚いものを出来るだけ吐き出さないように、また他人が吐き出したものを受け取らないようにすれば良いのではないでしょうか。

 ヒトを不浄なものとして接触を避けるようになると、否が応にも個として自立せざるをえません。そうすると、ヒトに対する関心が薄れて、ヒトとヒトの繋がりが解けていき、他人に干渉しようとはせず、また他人からの影響を排除しようとするでしょう。そして孤独の静けさの中で自分自身を見つめ、騙され、また、義理人情にほだされて不本意な選択をすることもなくなり、自分自身に対して素直な、自分が最も納得のいく人生の選択をすることが出来るようになっていくのではないでしょうか。

 社会的な交流に意味を見出している方々は、自分のものではない社会の価値基準に従いますが、ヒトとの関係性ではなく、自己完結的な人生に満足している方々は、自分自身の価値基準に従います。人生に対する満足度は明らかに後者の方が高いです。

 また、ヒトの移動が活発になっていましたが、ウィルスが伝播されるだけでなく、それ以外の負の側面についても十分認識されてきたことと思います。特に、異文化、異人種の人間が交わると、どうしても対立が生まれてしまいます。それが現段階の人類についての事実で、いくら理想を掲げてみても仕方なく、現実を見つめるべき時期に来ていたのではないでしょうか。

 さらに、21世紀に入って経済的に豊かな国が増えたことにより、多くの方が遠く、異国へと旅行に出かけるようになりましたが、それは、一般人の妄想が生活圏を離れて限りなく膨らんだことを意味します。妄想の拡大は精神的な不安定さを増大させます。

 疫病は厄病と考えられています。しかし、考えようによっては人類に課された試練=役病と捉えることもできます。また後になって顧みた場合、益病であるかもしれません。今回の自粛生活で、必要なものとそうでないものが、よく分かったはずです。人類は自らを見直す時期に来ているのではないでしょうか。

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