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杉山久子の俳句を読む 23年06月号②

珈琲におぼるゝ蟻の光かな

(句集『泉』所収)

 蟻はさまざまな俳句で溺れてきた。まず、これまで詠まれてきた溺れっぷりをいくつか見ていきたい。

ほとけの水に溺るゝ蟻を出してやりぬ 林原耒井
 おそらく墓石の手前にある窪みの水受けに溜まった水だろう。他の水ならば救わなかったのかもしれないが、正に仏心か。

閼伽桶あかおけに溺るゝ蟻を吾れ見たり 森田峠
 「閼伽桶」は仏に供える水の器である。殺生を禁じる仏教の観念から見ると、仏のために蟻が溺れているような矛盾を錯覚する。

打水や溺るる蟻と急ぐ蟻 高柳克弘
 水のかかった蟻と免れた蟻を対比することで、蟻が餌を運ぶときなど巣全体に関わることには協力するにもかかわらず、個々の蟻同士の危機には無関心であることが示されている。

 以上、進むにつれてより客観的になる順で並べた。このように、どの句も俳句の勘所を押さえ、哀れとは言わずに哀れを表現している。蟻は小さくて弱くて、働き者でけなげな生き物だからである。どこか人間に似ているから、愛着も湧く。

珈琲におぼるゝ蟻の光かな
 先掲の句にもそれぞれの魅力があるが、掲句はすこし違い、世の無情とは距離を置いている。
 珈琲という液体も、蟻の身体も、どちらも黒に近い色であるから、ほとんど溶け込んでしまう。それでも作者が気づいたのは、もがく蟻が光ったからだ。掲句で描出されているのは蟻の哀れでもなければ、蟻の生態でもなく、蟻の溺れる様子の美しさなのである。「蟻の光りけり」と発見にできるところを、「蟻の光かな」と押さえているのも沈着だ。
 掲句がここまで写生に集中できる理由の一つには、例には挙げなかったが、草田男や不死男ら先人の蟻の名句があるからだろう。もはや、仏のような言葉を用いずとも、写生すれば読者の心に自ずと感情の機微が生まれる。その拠り所が「蟻」という季語には備わっているにちがいない。

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