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「時間がない」と言わなければ死刑になる世界。

「仕事が遅い」とよく言われる。

何を報告しても、
どう準備をしても、
どんなに遅くまで残業して、
期日に間に合わせたとしても。

上層部から降ってくる言葉は、いつも同じだ。

そこにセットでくる言葉が、

「納期が近い」「時間がない」である。

実際、私は飲み込みが遅い方だと自覚している。
一度言われただけでは理解できないことも多い。

しかし腐らず諦めず、駄馬は駄馬なりに努力しているつもりだ。

ある日、
いつもの様に仕事をして、
いつもの様に報告して、
数千回目の「遅い」を言われて、
数万回目の「すみません」を口にした時、

ふと過った。ふと悟った。

「嗚呼多分、私の仕事が遅いのではない。この世界の流れが速すぎるのだ。」


仮に私に超人的な力が宿り、
今よりずっと早く仕事ができるようになったとして。

1日8時間掛けて行なっている仕事を
わずか1時間でできる様になったとして。

おそらく待っているのは、

今の8倍やることを詰め込まれ、

今よりずっと締切が短くなり、

かといって給金は比例して8倍に増えることもなく、

「締め切りが近い、時間がない」
「お前は仕事が遅い」

と結局同じことを言われる生活だろう。



当然のこととして、
会社は「時間が余っている」ことを良しとしない。
競争社会、利益至上主義のビジネスにおいて
それはおよそ理解できることではある。

しかし、
それにつられて
仕事終わりの夜の時間
何もしなくてもいい休日にも

「何かしなくてはもったいない」
「折角の休日に寝てばかりだった」

と嘆く我々個人、現代人。

やはり生きるのは大変そうだ。



最後に「私には時間がある」と思ったのは、いつだろうか。
最後に「私には時間がある」と誰かが言っているのを見たのは、
いつだろうか。

「早くしなさい」と言う大人は沢山いたが、
「時間はある、ゆっくり行こう」と言う人は居ただろうか。

そんな人間は、果たしてこの世に存在するだろうか。



「早いこと」が美徳であり、
善であり、
褒められるべき事であり、
優秀な事であり、
金になる事であり、
有用な事である世界で

「遅いこと」なことは無粋であり、
悪であり、
蔑まれるべき事であり、
愚鈍な事であり、
無価値な事であり、
無益な事である
そう言われている気がしてしまう。

その窮屈さに、時々息が詰まりそうになる。


私たちが生まれるよりずっと前、
およそ数十年、数百年前に比べて
見違えるほど技術は進歩して、
今はその豊かさの恩恵に預かっている筈なのに。

食器も衣服も一つ一つ手作りの時代から、
ライン製造と量産によって
1日に何千個、何万個と大量生産できる時代にもなって。

不安定な船に揺られて2,3日掛けて移動した東京と大阪を、
たった3時間で行き来できる時代にもなって。

三方向から部品を見て
投影図を手書きで描いていた時代から、
PCの中で3Dモデルを組み立て、解析もできる時代にもなって。

分厚い書籍の束からでなく、
ネットで適当に言葉を入力するだけで
知りたいことを見つけられる時代にもなって。

指先一つで欲しいものを選んで、
1-2日と待てば家に届く時代にもなって。

全ての情報と世界にノータイム・リアルタイムで
アクセスできる端末を手にする時代にもなって。

時間とモノと豊かさが溢れるはずの時代にもなって、

未だに私たちは、
社会は、

「時間がない」と言い張っている。
「もっと早く」と急いている。
「まだ足りない」と嘆いている。


「即日配達可能!」
「忙しい人の時間術」
「短時間の睡眠でパフォーマンスを出す!」
「⚪︎分で分かる××」
「隙間時間にできる△△」
「ファスト◻︎◻︎」

この世界中にはびこり、
そして一人ひとり個々人にも深く浸透している
「最速至上主義」のいく末は、
果たしてどこにあるのだろうか。

私たちは、
この流れに乗り
一生何かに追われた様に
生きていくしかないのか。

トイレに行くのにも
タバコを吸いに行くのにも
スマホを手放せなくなってしまった私たちに、
もはや「時間の余裕」を抱く感性は、
微塵も残されていないのだろうか。


今必要なのは、
「スキマ時間の使い方」ではなく、
「スキマ時間の生み出し方」ではないだろうか。

今考えるべきことは、
「手に入れたいと思えるモノ」ではなくて、
「手放しても良いと思えるモノ」ではないだろうか。

今大切にすべきなのは、
「やりたいことをやる努力」以上に、
「やらなくても良いことをやらない心意気」ではないだろうか。

…などと自問自答を長々と書き連ねている間にも、
とっぷり夜は更けていて。


明日も早いなぁ。


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