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自宅の中の公共

普段、自宅で勉強したり、何かの作業をしたりする時には、自室よりも共有スペースにいることの方が圧倒的に多い。

共有スペースとは、家族の誰もが好きなタイミング使える部屋のこと。

広さ10畳ほどの空間には、100冊以上の本が置かれた2mの背丈の本棚、テレビ台と大型テレビ、横になって寝られる大きさのソファ、雑多な物入れと化した扉付きの棚が、四方の壁に沿って配置されている。

部屋の中央に鎮座する脚の短いテーブル。その上には、テレビのリモコン、飲みかけの缶ジュース、読みかけの本、ウェットティッシュ、最近の買い物のレシート、白紙がうんと残っている罫線ノートとやらが無造作に散らばっていて、高校の陸上大会で100mを走り終えた選手たちの様相を呈している。

この部屋一番の魅力は、大きいソファがあること。寝そべって、ももの上にノートパソコンを置くと、ちょうどキーボードを打ちやすい体制になる。ソファの座面は固めの低反発素材で、背もたれは分厚いとあって、長時間同じ姿勢でも全然疲れない。それに、テレビを観るも良し・読書に耽るも良し・昼寝をするも良しの「三方良し」の空間なもんだから、外出する用事がない日には、大半をここで過ごしている。

ここで、自室の名誉のために言っておくが、決して自分の部屋が嫌いなわけではない。zoomで誰かと話す時は絶対にこっちの部屋を使うし、パーソナルなモノはこっちに置いておきたいと思う。でも、それ以上にあっちの部屋がいいってだけ。各部屋には、各部屋の使い道と良さがあるのだ。



「公共」という概念がある。

言い換えると「社会一般」や「おおやけ」、英語では「public(パブリック)」のことで、その対義語は「私」や「個」にあたる。

僕が愛用する共有スペース。これは、自宅という「プライベート(私的)」な場所において、家族であれば誰が使ってもいい空間、言うなれば「パブリック(公的)」な場である。

しかしながら、僕以外の家族が部屋に入ることは滅多にない。

今一緒に暮らしている両親の部屋は一階で、共有スペースがあるのは二階である。階段の掃除をするといった用事がない限りは、二階に来ることすらない。キッチンやリビング、浴室(もちろん玄関も)は一階にあるから、基本的な生活は一階だけで完結させることができる。

「一階で過ごす時間に満足しているから、二階の共有スペースを使わない」可能性はあるとして、「僕に気を遣っている」ということも考えられやしないだろうか。

勉強だかなんだか知らないが、あの部屋にこもっている息子。部屋でテレビを観たり、ソファで横になったりしたいが、そばに行くと息子の集中力を削いでしまうかもしれない。よし。それなら、部屋を使うのは我慢しておこう。

といった具合だ。もしそうなら、誰もが使っていい場所を形式的に「占拠」して、「公共の空間」を「私的な領域」に変容させてしまっている僕に責任があるかもしれない。

ここに原因があるとみて、僕が部屋を使う頻度を落としたとしよう。それでも両親が使わないのなら、おそらく別に部屋を使わない理由があるはずだから、僕はこれまで通りで問題はないだろう。ただ、両親が使い始めた場合、事態は複雑になる。きっと、僕はこれまでと同じように部屋を使うことができなくなるからだ。親と話をしながら、使う時間や使い方を事細かに決めていく必要すらあるかもしれない。

家庭の外の実社会に現れる「公共」の場も、それが「公共」の場になるために、様々なルールが存在する。私だけではなく、できるだけ多くの人(私たち)が気持ちよく利用できることを考えると、決まりがある意味が理解しやすくなる。

両親が共有スペースを使いたいと思っているのかどうか、実際のところは直接聞いてみないと分からない。でも、公共性のことを考えると、「いつでも誰でも使える」ようにできるだけ綺麗に部屋を使うようにするのが、良いのかもしれない。

早速立ち上がって、テーブルに積まれた読みかけの3冊を、本棚の定位置に戻す。

他のものは……。また今度片付けよう。きっと。明日。

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