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信念と指針と人生と

生まれてから現在に至るまで住んでいた日本を離れることになり、どうやらこれは人生における節目というものだろうということで、改めて、自分の信念はどこに依拠するのか、そして生きるうえでの指針となる価値観は何か、そのうえで私が歩むべき人生はいかなるものなのかについて、考えてみようと思う。

信念と

私は、生まれた環境がら「信念」という言葉をよく聞いてきた。いかなる環境においても、己の魂と紐づけられる揺るぎない確信や思い。それらを総じて信念と呼ぶらしい。私は、自分の属性や環境から信念の意味やその重みについて常々考えてみる機会に恵まれたと、つくづく思う。
私は「偽りの信念」が大嫌いである。私の意味する「偽りの信念」とは、口先だけの信念、「信念」という言葉を言いたいがために、あるいは言わざるを得ない環境においてのみ使われる「信念*」である。私の周りでは「信念*」という言葉をよく使う人たちが多かった。自分が受けた恩を返すだとか、歴史的に必要なものを守るだとか、そういった思いを信念と訳し語り合ってきた人たちが多かった。私はその言葉を聞くたびに疑問が多かった。信念というものは、決してそう簡単に語られるものではないのではないか。その言葉に裏付けされた重みが少なからず軽く思われたのである。
ショーシャンクの空に』という名作がある。主人公は不運にも冤罪で刑務所に入れられ、苦境の中でも希望を失うことなく生きていくという物語である。私は、そこに真の信念を見た気がする。信念は決して言葉では語られない何かであった。言葉の裏側にある熱く重たい「何か」、不屈の精神、これこそが信念ではないだろうか。そんな信念を体現する人の佇まいや瞳はどこか透き通っていてどこか力強い。そんな気がしてならない。信念のあり方は多様だと思うけれど、私はそんな信念を持ちたいと思う。

指針と

信念を貫くうえで、私はいくつかの行動指針が必要なのではないかと考える。誰にとっても人生におけるコンパスが必要で、これからありとあらゆる出来事に向かう中で、どんな困難の中でもぶれずに進んでいくための手がかりを心に宿す必要がある。人生の序盤ではあるものの現状の指針として私が持っている要素は、以下のようなものである。

①オシャレであること
②普遍的であること
③国境を越えること
④情熱的であること

①オシャレであること
世に働きかける社会活動やムーブメントは、オシャレでなくてはならない。なぜか。それは、自分が意見を届けたい相手、共鳴し合いたい相手のみならず、無関心な相手に最も確実に広範囲に自分の意思を届ける方法は、理屈や言葉ではなくて、直感的に感じる「オシャレさ」に起因するからである。
ココシャネルのファッションセンス、プロダクト、あるいは名前ですらが胸を鷲掴みにし多くの人を魅了するのは、彼女の哲学がオシャレだからである。オシャレという言葉こそ曖昧な概念ではあるが、その曖昧な含みも込めて、それ全てが強く美しいと思う。

②普遍的であること
今、自分が大半の労力、時間を費やすものに普遍性はあるか。数百年、数千年の歴史を経て今も語り継がれる歴史や芸術のように、その対象やそれに付随する自分自身は真の価値を見出せているか。これは非常に重要な要素であると思う。
数多の変数の中でも揺らぐことのなかった価値観や概念、哲学はそれだけで価値があるし、そこに詰まる価値は計り知れないであろう。私は自分自身を古典作品や芸術作品とよく照らし合わせて考える。私の生産物は果たして普遍的なのだろうか。

③国境を越えること
sovereign individual』という本を読んで、現代は、まさしく数百年に及んで人間の思考に当たり前に腰を下ろしていた「国家」という概念の重みや存在定義が変わっていくような息遣いを感じた。国籍、居住地、宗教、それら現代の人間に刷り込まれているアイデンティティを司る当たり前の概念が変わりつつあるのである。
だからこそ私は国境を越える存在でありたいと思う。それは常に中立であることでも、母国を捨てることでもない。時代の中で既存のアイデンティティと社会のマクロな変化を照らし合わせながら試行錯誤してみたいという意思の表れである。国家間の人流や物流がこれほどまでに容易かつ活発になった現代で、果たして国境を越え続けることで築き上げられる世界はいかなるものか。それを体感知として知りたいのである。

④情熱的であること
私にとって情熱を持つということは、当たり前のことでさえある。人生で心から熱中できることや愛することができる対象に出会う確率は、現代では少ないと言われるが、私はこれがないと人生ではないし、何がなんでも、そんな情熱的でいられる対象を見つけ続けたいと思う。
情熱的であることは、つまり、その対象に見返りのない愛情と希望を見出すことなのではないだろうか。そして、その対象が大きく育ったときに、私だけではないたくさんの人がその価値の恩恵を受けられれば、このうえない幸せに包まれるのだと思う。

人生と

信念と指針が定まることで具体的な行動が実行され、結果その過程が人生として新しい意味を持ち始める。人生とは何か。そんなことは生きるうえで誰もが何百回と自問したと思う。ヴィクトールフランクルの『夜と霧』は、私の人生の意味をより深く確実なものにしてくれた気がする。

「生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の義務を引き受けることに他ならない。」

「夜と霧」ヴィクトール・E・フランクル

私は、人生の意味は「自己満足である」と定義しているきらいがある。どういった自己満足を保持するかは人それぞれではあるが、人間は生きることが自分に問いかけてくる何か、ヴィクトールのいう「生きることが各人に課す課題」を満たすために人生を歩んでいくと思う。人生は短く儚い。夢や絵空事を脳内で描くだけでは、具体的な行動をしている人には敵わない。そんな現実を最近はよく突きつけられる。だからこそ、私は何のために生きるか、そのために何ができるか。人生にはそれらを細かく書き留められる壮大なバケットリストが必要なのだと思う。

信念と方針を持ちながら人生を生きていく当人として、自らが進むべき道を確実に歩んでいくこと、それが今私にできる最大のことである。数年後には今描けている数百倍、数千倍の大きさの絵を描けるように、早く、そしてゆっくりと進んでいきたいと思う。

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