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紅鮭のクリームパスタ

この世には、ものすごく美味しいクリームパスタと、あんまり美味しくないクリームパスタが存在する。

コンビニの冷凍食品コーナーに紅鮭とほうれん草のクリームパスタがあったので、ランチに手軽なそれを買って、オフィスの電子レンジであたためて食べてみたところ、残念ながら後者だった。クリームソースは味が薄いしバターや生クリームの香りがしない。ほうれん草の量は少な目だし、紅鮭はなんだか少し生臭さを感じた。ああ、今日もまた、あんまり美味しくないクリームパスタに出会ってしまった。

期待した私が馬鹿だったのだ。

クリームソースは冷凍でもレトルトでも味が劣化することは、長年の経験から分かっているはずなのに、最近は昔より美味しくなっているかもしれないと期待して、安さと手軽さと空腹で目がくらんで、買ってみて、そしてまた失敗する。

あんまり美味しくないクリームパスタは、どれも似たような味がする。

あんまり美味しくないクリームパスタを食べたときに決まって思い出すのは、小さいころに家族でよく出かけていった洋食屋さんの紅鮭のクリームパスタだ。

家族の誰かの特別な日に選ぶ、いくつかあるお店候補の内のひとつだった。父や母の誕生日、兄や私の入学式や卒業式などなど。イベントじゃないときでも、今日はちょっと食事に行こうかという日にも足を運ぶことがあった。

そのお店は、個人経営の小さな、けれどおしゃれでステキなお店だった。少し広めの道路から車で敷地に入ると、お店の目の前に車を1,2台停められるスペースがある。同じビルだったと思うが、隣は美容院だったか。小さなお店が肩を寄せ合いながら立ち並ぶ中の一角にあった。

間口の小さなかわいらしいドアを開けると、カウンター数席と4人掛けのテーブル席が2席に、2人掛けのテーブル席が1つくらいの小さなお店。
テーブルには清潔な白いテーブルクロスが敷かれている。

街の洋食屋さんというよりは、カジュアルフレンチやカジュアルイタリアンといったような雰囲気だった。よそゆきな感じもあるけれど、凛としたなかにも穏やかで柔らかなものを感じる、心地よい空間だった。

給仕をしてくれるのは若い奥さんで、服装は白いシャツに黒いベスト、黒いパンツに黒いサロンエプロンを巻き付けて、黒髪を、頭のひくい位置で一つに束ねていた。お化粧をしていなくて華奢だったが、健康美を感じる爽やかで静かな笑顔が印象的な女性だった。
注文はメモを取らずに、その場で覚えて、カウンター内に戻ってから厨房のシェフに伝えていた。私たち家族は5人家族で、父はワインも頼んでいたと思うし、メインの料理の他にも前菜を頼むこともあったので、子供ながらにすごいなぁと思っていた。私はそのお姉さんに小さな憧れを感じていたと思う。

注文を終えて料理を待っている間、銀色の体の長い犬の形をしたカトラリーレストが置かれ、それぞれが注文したメニューに合わせてフォークやナイフがひとつひとつ丁寧に並べられていく。

家族のお気に入りのメニューはハンバーグステーキセットで、特製の酸味がさわやかでコクのあるデミグラスソースが絶品で、付け合わせにはホクホクで丸っと小ぶりのポテトフライと、丁寧にカットされて煮込まれた人参のグラッセ、そしてクレソンが添えられていた。ライスは白い平皿に盛られていて、家で食べるお茶碗によそった白いご飯とはちがう、それだけでなんだか特別な感じがした。

ムール貝のつぼ焼きをはじめて食べたのもこのお店だった。デミグラスソースは後にも先にもこのお店の味が1番だと思う。母はよく若鶏の悪魔風というメニューを頼んでいた。若鶏の悪魔風は、柔らかくソテーされたチキンの上に、特製のガーリックソースが載せられた料理だ。大きくなって、私も母の真似をして若鶏の悪魔風を頼んだときと、付け合わせのクレソンが食べれるようになったときは、少し大人になったような誇らしい気持ちになった。

小さいころは、あまり私の食べられるものがなく、母が頼んだハンバーグのポテトや、父の苦手な人参のグラッセを分けてもらって食べていたと思う。

そんな中、私でも食べられるメニューだったのが、クリームパスタだった。
紅鮭といくらが載っている豪華なクリームパスタは、芳醇な生クリームとバターの香りがするホワイトソースが熱々のパスタとよくからんで、新鮮な紅鮭の切り身がクリームソースと一体となって、濃厚でコクがあって、とびきり美味しかった。

私の中の紅鮭のクリームパスタはこのお店のクリームパスタだ。今でも鮮明にそのビジュアルと味の記憶を思い出すことができる。たまにものすごく食べたくなるときがあると、今すぐ特急列車にのって田舎へ帰りたいと思う。

でも、残念ながらこのお店は、私が中学生くらいのころに閉店してしまった。それを聞かされたときは、とても悲しかったのを覚えている。今でもあのお店のデミグラスハンバーグとクリームパスタとムール貝のつぼ焼きを夢に見て思い出すときがあるくらいだ。

それくらい、家族みんなが大好きな美味しいお店だった。

別のお店で似たようなメニューを頼んでみても、その当時の味の記憶にぴったり当てはまる料理に出会ったことはこれまで一度もない。もうそのお店の味を求めてもこの世には存在しないのだと気付いたとき、美しい記憶のまま大切な思い出としてしまっておくんだと自分に言い聞かせ、似たようなものを頼むのは極力避けるようになった。それでも、たまにクリームパスタが食べたくなって、買ったり頼んだりして食べてみると、小さいころ何度も食べたあのお店の食事風景の記憶とともに、この寂しいような悲しいような、なんともいえない感情がやってくるのだった。

ものすごく美味しいクリームパスタを食べたときにはあんまり思い出さないのに、あんまり美味しくないクリームパスタを食べたときには思い出して、否が応でもあの当時の食事風景にタイムスリップする。

私はこれからの人生で、紅鮭のクリームパスタを満面の笑みで大満足の中に食べ終えることは、この先もきっとない。

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