時間切れ!倫理 137 啓蒙思想 福沢諭吉1
ペリー来航以後、幕末の政治動乱のすえ徳川幕府が倒れて、明治政府が成立しました。明治政府は様々なスローガンを掲げています。倫理的分野で言えば「文明開化」が重要です。外国人を追い払えという尊王攘夷から一変して、外国の文化をどんどん取り入れて西洋に追いつけ追い越せ、となります。西洋の文明を取り入れた先の目標は、産業(工業)発展、軍隊強化ですが、西欧の仕組みを取り入れるためには、西洋の思想を日本に紹介する人が必要となります。その代表的人物、西欧思想の紹介者のチャンピオンが福沢諭吉です。
福沢諭吉は1834年生まれ、ペリーが来る前ですね。家は、九州中津藩の武士でした。現在の福岡県です。徳川時代、各藩は年貢米を売ってお金に変える必要から、各藩は大坂に蔵屋敷を持ち、米の取引をしていました。諭吉の父親は大坂の蔵屋敷で勤務していたため大坂ぐらし、福沢諭吉も幼い頃は大坂で暮らしていました。
諭吉の自伝である『福翁自伝』によると、彼の父親は学問好きで漢学者になりたかったのですが、蔵屋敷での勤務を命じられ、米を売ったり買ったりのそろばん勘定が仕事です。商人のような仕事をすることを、父親は非常に悔しがっていた。しかし身分制社会のなかの、しかも下級武士なので、命ぜられるままに、自分のしたいことはできずに蔵屋敷で働いていた。これは身分制度のせいだとして諭吉は『門閥制度は親の仇(かたき)でござる』という有名な言葉を書いています。門閥制度というのは身分制度のことだと思えばいいです。
彼は幼いときから独立不羈の精神、批判精神が強かったようです。蔵屋敷勤務の父親は諭吉が幼い時に死んで、年上の兄が家長となり一家は九州の中津藩に帰ります。しかし福沢家の人々は大坂育ちなので言葉も大坂弁、九州に帰っても周りの子供達とは言葉も違ってなかなか馴染めず孤立していたようです。
さて、あるとき、部屋に紙が散乱していて、諭吉が藩主の名前を書いてある紙を踏んでしまった。すると、兄がすごく怒った。殿様の名前を踏みつけたら不忠だ、というわけです。兄は身分制度に対して何の疑問も持っていないのでした。しかし諭吉は、これはただの紙切れじゃないか。殿様の名前が書いてあるからといって、それを踏んで悪いはずがない。彼はそう考える。
考えるだけならば、そういう人はいるかもしれませんが、福沢諭吉のすごいところは、だったら神社のお札を踏んだらどうなるかと考え、お札を踏んでみた。何も起こらないから、今度は便所紙として使った。これもすごいけれど、それでも何も起こらない。調子に乗って、次は叔父さんの家にあるお稲荷さんの社を開けて、入っていた御神体の石を別の石とすり替えて様子を見る。何も起こらない。また別の家のお稲荷さんの社のご神体の木札を別のものとすり替えた。それでも、何も起こらない。おまけに、人々はそのダミーのご神体を拝んで、お祭りまでやっている。神も仏もありがたいことなんか一つもない、というのが諭吉の結論です。
こんな実験をする子供は、21世紀の今でも、まあいないでしょう。彼の批判精神がどれだけ時代を飛び越えていたかがよくわかるエピソードです。こういう人が、やがて西欧の合理的精神とシンクロして、明治のオピニオンリーダーになるのです。
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