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月面ラジオ { 18: "昼の博物館(2)" }

あらすじ:(1)30代のおばさんが、宇宙飛行士になった初恋の人を追いかけて月までストーカーに行きます。(2) 失恋した月美はダメな大人になりました。

{ 第1章, 前回: 第17章 }

東京は、世界一の過密都市だ。
一度見ればわかる、というのが月美の意見だった。

都市を形作る摩天楼は、凝縮された都市経済を養分にして育った樹海そのものだ。
巨大なビルの中には、レストラン、商店、ホテル、それどころか遊園地や水族館だって、なんだって詰めこむことができる。
世界中の食品、衣類、宝飾、遊戯がそろい、他の場所で買えるのに、ここで手に入らないものはないだろう。
東京は、これ以上ないほどふくれあがった消費の博物館だ。

そんな過密都市の只中に、人類の叡智と宇宙の壮大さを知らしめんがため、国家近代化の黎明に創建された本物の博物館がある。

上野科学博物館。
月美の今日の職場だ。
新陳代謝をくり返す細胞のように変化しつづける街並みの中で、科学博物館だけは百年前の姿のまま上野の森の片隅にあった。

月美は、博物館の玄関ホールで公演をしていた。
昨年の冬に青少年向けの科学実験をやってほしいと依頼され、半年の準備期間とたくさんのリハーサルを経て、やっと開催した公開講座だった。

大学に進学して東京に住むようになってから、足しげく通った科学博物館だ。
そこで公演をしているだなんてちょっぴり夢みたいで、月美は嬉しかった。

平日の午前でも、人の入りは上々だった。
この季節は、首都圏中の学校が遠足がてら博物館へ見学に来るからだ。
もちろん生徒たちのすべてが月美に興味を持ってくれたわけではないだろう。
それでも「翼竜の化石」や「女性のミイラ」や「絶滅種の剥製」や「江戸時代の望遠鏡」や「火星の石」と比べても、月美の講座を聞きたいと思った生徒が何人もいて、正直なところホッとした。
だれも自分の公演に興味を持ってくれないことほど辛いことはない。

楽しみにしていた公開講座だ。
でも、ひとつだけ問題があった。
その問題というのはつまりこういうことだ。

月美はひどい二日酔いだった。

頭の中がグルグルと回っていて、気持ち悪い。
自己嫌悪におちいる余裕すらなかった。
自分がどうやって博物館にたどり着いたのかも憶えていないし、そもそもここが博物館なのかも定かではない。
なにしろ天井の石材がだんだん溶けていくように見える。
壁も床もどろどろになった。
でも、やがてそれらが堅い壁と床に戻り、博物館は別の建物へと変化していくのだった。

ここはどこだろう? 
博物館のはずだし、目の前には生徒たちもいる。
けれど月美だけがどこか別の世界を見つめている。

さっきはハイラルの爽やかな牧草地帯で草をはむ馬の群れを眺めていたけれど、今度は建物の中で教鞭をとっていた。
古めかしい石づくりの部屋で、たくさんの座席が目の前にある。
月美のいる教壇を中心に、座席が劇場のように半円状にならんでいた。
奥にいくほど高くせり上がっていく。
目の前には実験用の大きな机、背後には四つの区画にわけられた黒板だ。
ランプの光はうす暗く、チョークの匂いと古い建物の匂いが混じり合っていた。
天井は高いけど、博物館の玄関ホールほどではない。
博物館の雑踏の音も聞こえなかった。

どうやら月美は講義室にいるようだ。
ロンドン王立研究院の講義室にちがいない。
行ったことはないはずなのに、月美はなぜかそう感じ取っていた。
生徒たちが腰をすえ、静かに月美を見下ろしていた。
いったいどういうわけか、粉をまぶしたような白いカツラをみんなかぶっていた。

もうわけがわからなかった。
夢見心地だ。
どうせ目がさめないのなら、夢に身を任せようと月美は思った。
なにせ、さっきとはちがい、生徒たちが馬や牛でなく、少なくとも人間に見えているのだから。
このまま異世界で講義を続けてもいいじゃないか。

生徒たちが有名な科学者に見えてもとくに気にならない。
雄一郎は、電磁誘導の発見者ことマイケル・ファラデーにそっくりだが、まぁ、些細な問題だろう。
他にも、デービー、ダニエル、マクスウェルなどそうそうたる面々がそろっていた。

公開講座をやりきるしかないようだ。
月美はボサボサの長い黒髪をゴムで背中にまとめ、だらしなく前を開けていた白衣を着直すと、教壇の前に進み出た。

「全員、超伝導体は行き渡ったか?」

月美の助手が、チェスの駒を生徒たちに配った。
生徒たち(といっても、もはや中年の西洋人にしか見えないが)は、不思議そうに黒と白の駒を眺めていた。

「何の変哲もないゲームの駒のようだけど、じつは超電導体でできている。」

とつぜんカツカツとチョークで書きなぐる音が響いたので、生徒たちはおどろいて顔をあげた。
だれも何もしていないのに、左上の黒板に文字が一画ごとに浮かび上がってきた。

超電導体は翼である

「超伝導体は翼である。」
 月美は、黒板の文章をあらためて口にした。
「いまからその意味を説明するわけだけど……」

手の中で遊ばせていた黒のルークを実験台の上にタンと置いた。

「この世には『百聞は一見に如かず』というすばらしい言葉がある。こむずかしい理屈を並べるより、じっさいに見たほうが早い。」
 月美は実験台に両の手のひらを乗せ、生徒たちのほうに身体を乗りだした。
「というわけでお手持ちの駒を投げつけほしい。私のむかってほうり投げるんだ。」

生徒たちの何人かは、月美が正気じゃないと思ったようだ。
その証拠に、アイザック・ニュートンとそっくりなカツラをかぶった女子生徒がおずおずと進み出て言った。

「あの……ほんとうに大丈夫ですか?」

「もちろん。」
 月美は請け負った。
「私ならすべてキャッチすることができる。百個でも二百個でもどんと来いさ。」

「さあ、全員立って。」
 月美はチェスの駒を投げるよう促した。
「つべこべ言わずにやるんだ。私を敵だと思って投げつければいい。それだけだ。合図をしたら同時にだぞ。あ、待って!  そこ!  二列目の君!  振りかぶらないで!  前の人にぶつかっちゃうだろ? 準備はできたか?  いっせいにだぞ? せぇーのっ

月美の調子はずれのかけ声と同時に、数十もの白と黒の駒が飛んだ。
すべての駒は、大なり小なりの弧を描いて月美にむかっていた。
このままでは月美の顔めがけて雨あられだ。
誰もがそう思った。
しかし、アッと声をこぼしてしまうようなことが起こった。

駒たちが月美の顔の前で止まったのだ。
何の前触れもなく、まるで釘でそこに打ち付けたようにピタッと宙にとまった。
駒たちは、さながらハエ取り紙につかまったハエのようになすすべがなかった。

「浮いてる! すごい!」
 女子ニュートンがおどろきの声をあげ、講義室を響かせた。

「おどろいてくれて何よりだ、アイザック。」
 月美はごきげんな様子で言った。

「どうして浮いているんですか?」
 雄一郎が言った。

「ファラデー博士、これはあなたの発見した電磁誘導も関わってくる現象なのです。」
 月美が夢見心地に言った。

月美が正気でないと思った雄一郎は、もう名前の訂正を諦めていた。

「前をみてほしい。」

宙ぶらりんの駒たちをそのままに、月美は黒板を指した。
ふたたびカツカツとチョークで書きなぐる音が鳴った。
今度は絵が浮かび上がってきた。
フサフサの白いかつらを被っているヨーロッパの科学者の絵だった。

科学者の手には、ルークやナイトなどのチェスの駒があった。
ただし駒は手の中にとどまることなく、ひとりでに宙に浮いて静止していた。
まるで翼が生えたかのようで、科学者はおどろいていた。

「この科学者が持っている……というよりも『持っていたはず』の駒も超電導体でできている。『超伝導体』は、磁場の影響を受けてこのように特別な現象をみせる。ご覧あれ。」

月美は合唱団の指揮者のように仰々しく指をふった。
実験台の上に浮かんでいた駒たちが、竜巻にまかれたかのようにグルグルと回りだした。
そしてそのまま白は白同士、黒は黒同士で集まり、試合開始の盤面そのままに整然とならんだ。
おどろきの拍手と感心の声が講義室をつつみ、月美は大義そうに手をふって応えた。

「これらの駒を動かすのは磁場と呼ばれる『場の力』だ。想像にかたくないだろうが、この実験台が磁場の発生装置だ。ここで生みだされた磁場が、超電導体の駒を止めたり、逆に動かしたりする力の源というわけだ。」

月美は自分の実験台を愛おしそうになでて言った。

「この中にいる何人かは、私の設計した磁場発生装置を見て、まるで魔法のようだ驚嘆し、目をむいてくれることだろう。しかし磁場というのは、とくに珍しい力ではない。むしろあらゆる生物にとってなじみ深いとも言える。」

「地球のことですね。」

初めて聞く声だった。
雄一郎とは対象的に大きく堂々としていた。

「地球上には地磁気と呼ばれる磁場がある。」

「そのとおり!」

月美が声をあげると、また黒板からチョーク音が鳴った。
三つ目の黒板に浮かんだのは、地球の絵だった。
地学や物理学の教科書に必ず描かれている有名な絵だ。
南極から赤い矢印が何本も飛び出し、それぞれが大きな弧を描いて北上し、やがて北極の一点に集まり、収束する。
地球のかたわららには方位磁石が描かれ、赤の矢印が示す方角、すなわち北を指し示している。

「地球は磁石そのものなんだ。だから地上は磁場であふれかえっている。この巨大な磁場を地磁気という。方位磁石の針が南北を指すのは、地磁気による影響なんだ。イルカや渡り鳥のような体内磁石を持つ動物は、この地磁気を感じとって方角を判断している。うん、君の言うとおりだ……」

月美は少年を見やった。
そのとたん固まってしまった。
とても恐ろしいことに気がついて血の気が引いたのだった。

少年は背が高く、肩幅も大きく、緑のブレザーが窮屈そうだった。
遠くに座っていてもそれがよくわかる。
ていねいに整えられた短い髪はひたすら清潔だった。
月美の勝手な印象だけれど、運動も勉強も得意そうな顔つきをしていた。
きっと非の打ち所のない少年にちがいない。

でも、そんなことはどうだってよかった。
問題なのは、その少年が「青野彦丸」に似ていることだった。
かつての親友のように思えてしかたがない。
冷静になって見れば、彦丸とは似ても似つかないのだろうけど、昨夜から冷静だった時間がない月美にとっては瓜二つだった。
パニックになった人間が呼吸困難におちいるように、月美はもう冷静な判断ができなかった。

「あの顔色が……」
 彦丸似の少年が心配そうに言った。

「あ、いや、気にしないでくれ。」
 月美はしどろもどろに言った。
「ええと……君は?」

「僕は……」

「ああ、うん、やっぱいい……」
 月美は名乗りかけた少年を止めて言った。
「名前なんてどうだっていいよ。ほんと、どうでもういい。そのまま座っていてくれ。」

少年はショックを受けたように固まった。
開いた口だけが魚のように動いていた。

月美の視界がまた溶けはじめた。
壁も天井も積み木のようにガラガラとくずれ、別の世界があらわれた。
この手の現象にもう慣れ始めた月美は、ゆっくりと息を吸いながら再び焦点が定まるのを待った。
今度はどんな珍スポットへ連れて行ってくれるのかと、すこし楽しみだった。
けれど科学博物館の玄関ホールに戻ってきただけなので拍子抜けだった。
彦丸ショックにより酔いがさめてしまったのかもしれない。

木造の教壇はなくなり、月美は石の床に立っていた。
ベルベットのカーテンは消え、かわりに石柱があらわれた。
吹き抜けの二階と三階の廊下では、人々が建物の北翼と南翼の展示スペースをせわしなく行き来していた。
自動筆記の黒板と、磁場を生み出す実験台だけが、変わらず月美の前にあった。

いつのまにか公開講座の聴衆も増えていた。
クッションに座っている生徒たちのまわりに、立ち見の人だかりができているほどだ。

月美はふたたび呼吸を整えてから天井のドームを仰ぎ見た。
いつもなら花形のステンドグラスが輝いているのに、今日はすっぽりと天井に穴が空いていた。
その穴は真っ暗で、月と星がゆっくり周天していた。
かつて彦丸たちと山でキャンプをしながら見上げた冷涼な夜空だった。
ほんの半歩だけど、まだ夢の世界に足を踏み入れていた。

「ここで超電導体の話にもどる。」
 月美は言った。
「おそらく私の説明をきいただけでは、超電導体を『すごい磁石』だとかんちがいしてしまうだろう。残念ながら、超電導体は磁石のようなありふれた物質ではない。たったいまチェスの駒で示したように、磁場に対して過剰ともいえる反応を示す。もう一度実演してみよう。」

せっかく観客も増えたのだし、度肝を抜いてやろう。
月美は張りきって前にすすみでた。
実験台の下にかくしていたバケツを取り出し、その中に手をつっこんだ。
バケツは濃い灰色の砂で満ちていた。
月美はその砂をすくって、聴衆たちに見せた。

「超電導体で作った砂だ。」

「それで何をするんですか?」
 雄一郎がたずねた。

「この砂をそっちにぶちまけようと思う。『そっち』というのはつまり君たちのことなんだが……」

最前列に座っていた生徒たちが全員顔をひきつらせた。
けれど月美はおかまいなしだった。
なんの予告もなく、「せーの!」とひとりで音頭を取ってバケツの中身をばらまいた。

最前列の生徒たちはあわてて体をのけぞった。
けれど生徒たちが砂まみれになることをはなかった。
チェスの駒が止まったのとおなじように、大量の砂もピタリと宙の上にとどまっていた。
ただし、チェスの時とはすこしだけ違うことが起こった。

砂はひと箇所にがっちりと固まり、形をなしていた。
それは前かがみになりながら椅子に座り、気難しい顔をしながら物思いにふけっている中年の彫像だった。

「オーギュスト・ロダン制作の『考える人』だ。」
 月美は、今しがた自分で掘りあげたかのように満足気だった。
「上野でもっとも有名な彫像のひとつだ。なにしろタダで見られるからな。ここに来る途中、美術館の前で見かけただろ? こんな風に超伝導体を砂のように……あれ?」

よく見ると、あごを乗せているはずの右手が、手首の上からすっぽり抜けていた。
月美はあわてて残りの砂をかけて右手を補った。

「超伝導体を砂のように細かくすることで、より精密なコントロールが可能となる。さきほど超伝導体の動きをコントロールしているのは『磁場』だとご説明さしあげたわけだが、このように磁場に対して反応する性質を私たちは『反磁性』と呼んでいる。」

再び黒板がカツカツとなり、広告の煽り文句のような説明がうかんだ。

反磁性
磁場に反発する力! 
じつはすべての物質が空を飛ぶ? 

「次は、この反磁性に着目して話をすすめる。これが最後の実験となるが、今度は超電導体ではない物質を使ってみよう。」
 月美がパチンと指をならすと、砂でできた「考える人」が突然何かをひらめいたかのように顔を上げ、そして立ち上がった。
 何やらすばらしいアイデアを思いついたようで、気難しい表情が消えていた。
「超伝導体はじつに愛くるしい反磁性を示してくれたわけだが……」

「考える人」は歩きだして実験台のすみっこまで行き、月美のためにスペースを空けた。

「我々にとって身近なものも反磁性の性質を色濃くしめす。しかも意外なものが……」

そう言いながら、月美は実験台の下から透明の液体で満たされたグラスを取り出し、そのまま台の上に置いた。

「それは?」
 雄一郎がたずねた。

「水?」

女子ニュートンが首をかしげた。
まだカツラをかぶっていた。

「水にしか見えないだろ?」
 月美は言った。
「なにしろ水だからな。ご覧あれ。」

月美がグラスを手にとってひっくり返した。
水はとくとくと流れてグラスからこぼれ落ちた。
もちろんそれは実験台を濡らすことはなかった。
ここにいる誰もが期待したとおり、本日三度目の「驚くべきこと」が起こった。

水の球ができあがった。
それは宙に漂う水の球だった。

「どうだ? 水が浮かぶだなんて、宇宙にいるみたいだろう。」

月美は小さな水瓶をとりだし、目の前の球にもっと水をそそいだ。
球はさらに水をとりこんで、リンゴとメロンの間くらいの大きさになった。

「反磁性の物質は、磁場の中で浮遊をさせることができる。そして水は反磁性が強い。有名な実験としては、生きたカエルやバッタ、それに果物を浮かすというものがある。反磁性は、このようにいかなる物質も持ち合わせているんだ。それを極限まで高めたのがさきほどの『超電導体』ということになる。」

「今日、みんなにひとつだけ覚えて帰ってほしいことがある。それは、これから『磁場と浮揚の時代』がやってくるということだ。反磁性体……そして超電導体……磁場の力を使うこととで、我々は物質を宙に浮かべることができる。重たいものを一度でも持ちあげたことがあればわかるだろ? 浮揚の利便性は計り知れない。」

「さて……しあげといこう。」
 月美はポケットからあるものをとりだし、手のひらに乗せてみせた。

それは赤い金魚だった。
金魚はぴくりとも動かなかった。

「死んでいるわけじゃない。」
 月美は言った。
「ロボットだからな。ちなみに非売品だ。わたしの親戚が作ってくれた。」

そういうと、月美は水の球の中に手を入れた。
ロボット金魚は、ホンモノ同然に動きだした。
まるで空を泳いでいるかのようだった。

「拍手は少なめにしてほしい。さっきから頭痛がやまないんだ。」

万雷の拍手が起こった。

「ありがとう、ありがとう。」
 ひとしきり拍手がなり、やがてそれが収まるのを待って、月美は手を振って応えた。
「以上で今日の実験講座は終わりとなる。もちろん、私には君たちの好奇心に応えるための時間が若干あるわけだが……」

緑のブレザーの中から手が上がった。
月美はすこし顔をひきつらせた。
手を上げたのが彦丸似の少年だったからだ。

「磁場の中で水や小さな生物が浮くという話は聞いたことがあります。でも、それだけ大きな水の球を作るなら、そうとう強力な磁場になるはずです。こんなところで本当に作られるんですか?」

「なかなか鋭い指摘だ。」
 月美は感心した。

「たしかに水を飛ばすほどの磁場を作るとなると、まわりの電子機器がすべて壊れるくらいの強力な磁場が必要となる。この金魚も無事に泳ぐことはなかっただろう。」
 月美は水の球の中に手の先を入れ、指の背で金魚の腹をなでた。
「強力な磁場は専用の実験室でないと作りだせない。ではどうするか? 今回の実験では、常磁性のガスの中では反磁性体の反発力が強まるという『磁気アルキメデス効果』を利用した。たんに水が浮いているわけではなく、その回りを磁場に反応しやすいガスで包んでいるわけだ。」

「常磁性のガスがあるとなぜ反発力が高まるのですか?」
 彦丸二号が続けた。

「知らん。帰って自分で調べるんだ。はい。おつぎの質問は?」

「すごく面白い実験でした。」
 雄一郎がまっすぐ手をあげながら興奮気味に言った。
「磁場と超電導体はどんな風に応用できるのですか?」

「もっとも活躍が期待されているのは医療の現場だ。」
 月美は答えた。
「事故や病気で足腰の弱まった人を補助するために超電導体が利用できる。服の下に超電導体をしこんでおけば、それで体を支えられるし、リハビリテーションでも活用できるだろう。じつは医療の現場で磁場をどのように活用するかを考えるのが私の研究分野なんだ。」

「普段の生活にも役だちますか?」

「もちろん。再三申しあげたとおり、磁場の力で重たいものを宙に浮かせられる。引っ越しのときは、みんな涙を流して磁場と私に感謝するだろう。」

「インテリアとしてもいいかも。」
 女子ニュートンが言った。

「インテリア? ああ、これか……私のつくったこの『やっとこさ、思いついた人』のことだな。」

月美は実験台の隅っこで立ったまま喜びでうち震えている中年の砂像をさした。

「ちがいます。そっちの飛んでいる金魚のほうです。」

「ああ、なんだ……金魚のほうか……そういう考え方をしたことはなかったな。たしかに部屋のすみでカエルやバッタが浮かんでいたら素敵かもしれない。」

女子ニュートンは「金魚だけで十分です」と小さな声で言った。

「すでに磁場が活躍している現場もある。みんなにもっともなじみ深いのはリニアモーターカーだろう。あれは、浮かぶ列車だ。車輪の代わりに超電導体を使用している。技術がもっと進歩すれば、ふつうの車だってそのうち宙に浮かぶようになるだろう。」

「車が空を飛ぶと何が嬉しいんですか?」
 雄一郎が食らいついた。

「車線が左右にではなく、上下に増えるだろ? そしたら道を拡げる工事をしなくても、交通渋滞を減らせる。空中には歩行者もいないから、交通事故も少なくなるだろう。まあ、人が空を歩くようになれば話は別だけどな。」

「空を歩けるんですか?」
 と、女子ニュートン。

「靴底に超電導体をしこめばね。」
 月美は答えた。
「目に見えない磁場の歩行路もつくる必要がある。それと、暑くてもムレない靴だな。空中でうっかり靴を脱いだらたいへんなことになる。これでミスター・スカイウォーカーの完成だ。車を飛ばすよりも簡単かもしれないな。」

「想像してみてほしい……」
 月美は言った。
「重力にとらわれず、空を自由に行き来する自分の姿を。」

どの生徒たちもほおけた顔をして、だまりこけた。
雲の上でスポーツをしたり、走り回ったりする自分の姿を想像しているのだろう。
その様子をみて月美は確かに公演の手応えを感じ取ったのだけど、その興奮もつかの間、月美は固まった。
緑のブレザーの中からたくましい手がすっと上がった。
彦丸二号だった。

「空を歩けば宇宙まで行けますか?」
 彦丸二号が真剣な面持ちでたずねた。

「宇宙……」

月美はなにも答えられず、動けないままだった。

「宇宙に行く? それは……」

ふと見上げれば、博物館の天井はポッカリと開いたいた。
そこから丸い月が顔をのぞかせていた。
手を伸ばせば届きそうなのに、決して届かない。

「宇宙……私はあそこに……」


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