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月面ラジオ { 17: "昼の博物館" }

あらすじ:(1)30代のおばさんが、宇宙飛行士になった初恋の人を追いかけて月までストーカーに行きます。(2) 失恋した月美はダメな大人になりました。

{ 第1章, 前回: 第16章 }

「この中で空を飛べる人はいますか?」

大草原のただ中で、その草原よりもはるかに大きな空を仰ぎつつ、しかし吐き気をもよおしながら月美は尋ねた。
目の前の景色はこんなにも鮮やかで、吹く風にも色がつきそうなのに、意識は朦朧といていた。

空には、透明な昼の月と、古城のような宇宙船が浮かんでいた。
それをぼおっと眺めながら月美は考えた。

ここはどこだ? 
なぜ草原にいる? 
空を飛ぶ? 
いったいだれと話をしているんだ? 

まもなくして、青い空と草原が月美の前から消えた。
自分のいる場所が、高原の牧草地でもなく、ススキの原野でもなく、ヒナゲシの薫る丘でもないことをふと思い出したからだ。

月美のいる場所は、屋外ですらなかった。
目の前に広がっているのは、風になびく草の原でなく、上品な緑のブレーザーを着た中学生の群れだった。
全員口をあけっぱなしにしていた。
血の気を失うどころか、血管まで根こそぎ持って行かれた月美の顔をぼうぜんと眺めている。

「その前にひとついいですか?」

ブレーザーの中からすっと手があがった。

「ええ、どうぞ。」
 月美は手のひらをさしだして言った。

いちばん背の低い少年がクッションにすわったままたずねた。

「あの、体調がすぐれないようですけど大丈夫ですか?」

中学生にしても幼い顔の少年だった。
その分、ていねいな言葉づかいが印象に残る。

「ああ、どうもすぐれないようだ……」

月美は上の空だ。
他人の子の発熱をおもんばかるような声だった。

「二日酔だから……うん、当然だろう。昨日は調子にのりすぎてしまった。」
 月美は白衣のポケットに手を入れながら、立つ瀬がないといった調子で続けた。
「あやうくこの講座のことを忘れるところだった。」

何人かの生徒が律儀に笑った。
引率の先生(月美よりもずっと年上の女性の先生で、厳しそうだ)は、月美よりもさらに苦い顔をしてこちらを睨んでいた。

「心配しなくていい。」
 目をこすって少年に焦点をあわせ、月美はホロンバイル草原に行ったきりの意識をたぐり寄せた。
「たとえ私が死んでも、この実験だけはやりきるつもりだ。まかせてくれ。」

月美は、視界に残っているホロンバイルの白い雲が消えるよう力をふり絞った。
博物館の吹き抜けの天井と、上階の渡り廊下を行き来する人たちが段々と見えてきた。
月美は少年を見据えた。

「最初の質問に戻ろう。」
 ことのほかはっきりとした声に我ながらおどろいた。
「君は空を飛べるかな?」

「飛行機を使えば。」
 少年は端的に答えた。

「うん、そのとおりだ。」
 これ以上の答えはないとばかりに月美はうなずいた。

うなずいたとたん頭が痛くなった。
でもなんとか我慢できそうだ。
この分ならこの公開講座をなんとか乗り切れるかもしれない。

「君の名前を聞いてもいいかな?」
 月美がたずねた。

「柏木です。」
 少年は答えた。
「柏木雄一郎。」

「ありがとう、雄一。」

「雄一郎です。」

「ありがとう、雄一郎。君は、科学が好きかな?」

「いいえ。特には。」
 雄一郎はきっぱりと答えた。

「うん、正直だな。」
 月美はすこし笑って、でもちょっとだけ残念そうに言った。

月美たちを遠巻きに見ていた観光客の何人かも笑った。

「なにもおかしいことはありません。」
 月美は肩をすくめてみせた。
「じつは私もそうでした。高校生になるまでは、本を読むのも計算をするのも嫌いでした。でもある時とつぜん科学を好きになったんです。それで勉強をするようになって、科学者になって、いまこの場所でみなさんとお話をしています。この科学実験講座が終わったころには、雄一だって今よりほんのちょっと科学のことを好きになっているはずです。」

「雄一郎です。」

「というわけで、雄一郎、もうひとつ訊きたいことがあるんだ。君は飛行機を使わずに空を飛べるかな?」

「いいえ。」
 雄一郎はブンブンと首を横にふった。

「この中に乗り物を使わずに空を飛べる人はいるか?」
 月美は、他の学生たちにも尋ねた。
「ヘリコプターもロケットもだめだ。」

ナイフで空気を切るようにシンとなった。
だれも何も答えない。
もちろん答えなんて返ってこないことはわかっていたけれど、月美はわざと黙って待ち続けた。
穴でも空いたかのように頭がズキズキするので、少し休みたかったというのもあるけれど、それだけが待つ理由じゃない。

月美は、黙って待つことの効果を知っていた。
ただ黙っているだけで、「おまえは間違っている」と指摘されたように聴衆は恐れをなす。
その心理的な壺にはまった者は、月美の口から出るであろう正解に期待し、それが救いであるかのごとく待ち望むようになるのだ。
月美はそのことを経験から学んでいた。

雄一郎もじっと月美のことを見ていた。
だれもが月美の答えを待ち望んているはずだ。
月美はたっぷり時間を取ってそれを確信し、次の言葉を述べた。

「人はどんな場所でも行けるようになりました。海の底でも、空の彼方でも……宇宙でさえ例外ではありません。でもそれは『行けるようになった』というだけです。人はいまだ鳥のように宙を舞うことはきません。飛ぶどころか、世界中を探しても一秒以上ジャンプできる人はいません。そこが問題なんです……」

生徒たちのあいだに動揺がひろがった。
自分が一秒以上ジャンプできないことを始めて知ったようで、それが本当か確かめたくてウズウズしていた。

「人間には翼がありません。しかたないことです。」

いま四十人もの学生がいっせいにジャンプを始めたらたまったものじゃない。
半分酔っぱらった状態の月美は、刺激に対して敏感に反応してしまうのだ。
月美はあわてて話を続けた。

「『しかたない』であきらめる科学者はこの世にいません。翼がないなら、翼を作ればいい。それが私たちの研究テーマのひとつです。そして、その翼というのが……」

月美は白衣のポケットから、チェスの駒を取り出して、頭の上にかかげた。
会場中の視線が頭上の「ルーク」に刺さるのを感じた。
吹き抜けの二階廊下で鉱石のコレクションを見物していた海外旅行客も、巨大水晶の代わりにルークを見つめた。

「この超伝導体です。」


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