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月面ラジオ { 33: 彦丸(2) }

あらすじ:(1) 30代のおばさんが、宇宙飛行士になった初恋の人を追いかけて月までストーカーに行きます。(2) 月美は、月で働くことになりました。

{ 第1章, 前回: 第32章 }

世界が起動した。
起動のさなか、まだぼんやりとする視界の中で三行のメッセージだけがはっきりと見えた。

五月七日 午前十一時〇七分
月衛星軌道ルナスケープ社第一ドック
監督室

やがて、ぼけていたピントが合いはじめた。
二台のディスプレイ、三つの写真立て、五冊の分厚い文庫が置いてある机、それから天井の排気口が見えた。
ディスプレイの一面に今週分のカレンダーが映っていて、そこには会議のスケジュールがたくさん書きこんであった。

「ああ、今日は朝の九時から会議があるのか。しかも緊急の……」

そうつぶやいたところで彦丸は思い出した。

「いや、待て……緊急会議はちょうど終わったところじゃないか。」

思った以上に疲れているようだ。
このまま無重力というベッドに寝ころんで二時間ほど仮眠し、起きがけに熱いコーヒーを流しこんで脳と体をいたわってあげたい。
でも、それだけの時間は許されていなかった。
お重につめこんだご飯のようなスケジュールを見て彦丸はうらめしく思った。

泣きごとを言っているヒマはなかった。
ほんとうに疲れるのはこれからなのだから。
木土往還宇宙船の建造という人生をかけた仕事がある。
それと、ついでにというほどのことでもないけれど、失踪した輸送船の調査をしなくちゃならない。

彦丸は顔に手を伸ばし、頭をしばっているゴーグルのバンドをゆるめた。
汗ばんだゴーグルから解放されると、目の周りがひんやりして心地よかった。
放り出されたゴーグルは、そのまま宙にプカプカと浮かんだ。

ほとんど水平になるまで倒していた椅子のリクライニングを戻した。
小一時間頭をしばっていたのでズキズキした。
中古の安いゴーグルでなく、高級な仮想空間用ゴーグルかネットコンタクトを利用すればもう少し勝手はちがうのだろうけど、まあ、そんなことはどうだってよかった。

さきほどまでルナスケープ本社最高層の会議室にいたのに、いまは監督室と呼ばれる缶詰のような部屋にいる。
目と鼻の先に壁があるし、その壁の素材も見れば見るほど安っぽかったけど、そのほうが彦丸は落ちついて過ごせた。

軽く腰をうかせ、そのいきおいで椅子から飛びだした。
脱ぎっぱなしの作業服を押してのけて、そのまま窓に近寄った。

窓の向こうには、オリンピック級のスタジアムさえ収まる広大な空間があった。
広大ではあるものの、このドックにあるのはたったひとつ、作りかけの船だけだ。
人類の技術・歴史・執念の集大成ともいえる巨大建造物、「木土往還宇宙船」が鎮座召しましている。

ここは月衛星軌道上にあるルナスケープ社の第一ドックヤードだ。

複雑な鉄骨の中でそびえ立つのは、無重力環境用の重機だった。
アフリカ象でさえピーナツのごとく扱える巨大ロボットアームや、厚い鉄板を数十枚もくっつけたまま運べる電磁石アームが、天井の梁からツタのように垂れ下がり、他の工場から納入された船体ブロックを運んでいた。
ブロックと呼ばれる船体の部品同士をつなぎ、組みたてる作業が造船にはつきものだけれど、それはさながら巨人のためのレゴブロックだった。

鉄骨で組まれた足場の上をロボットがすばやく移動していた。
彼らは加工や溶接という工程を豪快かつ正確にこなすたのもしい職人だ。

しなるロープにつかまりながら移動する宇宙服の作業員たちもいる。
ロボットの仕事の出来を確認し、ロボットだけではできない細やかな作業を引き受けている。
複雑怪奇な配線作業をともなう電気工事も彼らの仕事だった。

減圧を終えたエアロックから労働者がなだれこんできた。
ある者は手近の内装の工事現場へ、ある者はリフトにのって高層デッキの施工現場へ向かい、すでに働きづめの者たちから仕事をひき継いだ。

すぐそこで都市開発とおなじ規模の工事をしているというのに、この部屋まで音が届かないのはやっぱり不思議だった。
その違和感こそが、ここは宇宙のど真ん中で、空気のない危険な世界だとうことを彦丸に自覚させるのだった。

昼も夜もなく、ともすれば時間感覚のおかしくなる空間で、屈強な作業員とロボットたちがひっきりなしに働いていた。
無音の世界の労働風景は、彦丸に「メトロポリス」という映画を思い出させた。
それはモノクロ・無声時代のドイツ映画で、未来の巨大工業都市を描いた古典の傑作だ。

「空調設備の点検スケジュールを見直すんだ。」
 彦丸は黒髪の男に向かって叫んだ。
「アルファ区画とブラボー区画が同時に使えなくなると、いくつかの資材が搬入できなくなる。ブラボーとチャーリーが同時に使えなくても同じだ。だから点検の順番を見直すんだ。」

「見直しとなると、点検自体の効率を下げてしまいますが……」
 業務管理課の電脳秘書、リーが直立不動のまま意見を述べた。

「かまわないさ。」
 リーのそばを衛星のように漂いながら彦丸は答えた。
「往還船のスケジュールに影響を与えるわけにはいかない。点検の業者とは今のうち話をつけておくんだ。」

「承知しました。それともうひとつ、地球チームから報告が届いています。納期遅延を起こしていた蓄電システムについてなのですが……」

「まだ片付いていなかったのか?」
 彦丸はうんざりした。
「そっちでなんとかできなかったのか?」

「はい、やはり解決は難しく……」

「まったく……」

宇宙開発が活発になるにつれ、資源や製品が不足するようになった。
蜘蛛の子のように増えつづける人工衛星、あと数年のうち渋滞を起こすと言われている宇宙船、サグラダ・ファミリアよろしく増築をくり返すラグランジュ……
これら宇宙産業のインフラが日夜食らっているのは、信じられないほどの金属とエネルギーだ。
どちらも無限に手に入るものでなく、宇宙開発業界は何もかもが奪い合いである。

ルナスケープ相手に納期遅延を起こす業者も最近は珍しくない。
これは、造船計画にとってたまったものじゃなかった。
ただでさえこの宇宙船は、ガロン単位で酒と肉をよこせとせがむ獣のようだというのに。

「調達部でも再三交渉しているのですが……」
 リーは続けた。
「先方も『無いものは、どうがんばっても打ち上げられない』としか言わなくなりました。来月なら確実に納品できるのですが……」

「今ある分だけでも先に打ち上げられないのか?」

「それは難しいかと。先方は違約金を払ってでも納期を遅らせるといっています。余分にロケットを打上げるとなるとルナスケープで経費を負担することになりますが。」

「遅らせるしかないのか……」
 彦丸はつぶやくように言った。
「まあハンパに蓄電システムの工事をすすめても意味はないか。他に影響が出るのは避けられないだろうし……ん? そうか……蓄電システムがまるまる来ないとなると、資材の搬入計画のほうを見直したほうがいいな。もしかしたら設備点検のスケジュールを変更しないで済むかもしれない。」

「こちらとしても助かります。」

「搬入計画はこっちで見直しておく。」
 彦丸は言った。
「ただし納期管理は、もっと徹底してやるよう地球チームに指示しておくんだ。生産元や卸業者だけじゃなくて、原料を採掘している炭鉱夫の朝メシにまで口を出すんだ。いいかい?」

「了解しました。」
 リーが一礼した。
「本日はこれにて失礼いたします。ちょうどお客さんもいらっしゃったようですし。」

「ごくろうさま。」

彦丸がゴーグルをはずすと、リーの姿が視界から消えた。

「なんのようだい?」

ふり向くと監督室の扉が開いていて、そこにユエが立っていた。
ユエは、ラグランジュに行った時と同じ黒いスーツを身にまとい、底が真っ赤なヒールを履いていた。

「次の打ち合わせの前に『品質管理の効率化に関する提案書』ってのを読まなければならないんだけど、それよりも優先することかい?」

「あなたが優先すべきはこれよ。」
 ユエは、紙の包装で包まれたサンドイッチと、無重力対応の炭酸水のボトルを投げてよこした。

「もう二時じゃないか。」
 彦丸は左手でボトルを握ったまま腕時計に目をやった。
「どうりで腹ペコなわけだ。」

「食事を抜くのはよくないわ。」
 監督室に入ってくると、ユエはさっきまでリーのいた場所についた。
「そのうちあなたも朝の献立を指図されるようになるわ。」

「抜いたんじゃなくて遅れただけさ。朝に緊急会議をぶちこまれたせいだ。僕も君といっしょにサボればよかったよ。」

「その緊急会議、また開催されるわよ。明日の朝一番で。」

「なんだって?」

彦丸はおどろいて机のディスプレイを見た。

確かに身に覚えのない会議がスケジュール表に刻まれていた。
本社の会議室で……また朝の九時からだ! 
議題は「極秘」とあるけれど、今日の続きであることは明白だった。

すでにあった他の予定も、割りこみに押されて勝手に変更されていった。
往還船に関する打ち合わせのスケジュールが、一個づつずらされていくのを「なんかのパズルゲームのようだ」と思いながら彦丸は叫んだ。

「またか!」

そして、最終的に彦丸の就寝時間が二時間分へこんでパズルゲームは終了した。

「働きすぎよ。」

「かまわないさ。ユエ、君のほうこそ調子はどうだい。」

「制御システムの試験は順調よ。」
 ユエは、調子というのが自分の「健康と生活」のことではなく、「仕事」のことだというのは百も承知といった具合だ。
「もうすぐエンジンとの連携試験も始められる。」

「順調なのはなによりだ。君がいなければ『計画通り』だなんて夢のまた夢だったよ。」

彦丸はサンドイッチの包装をやぶいた。
好物のツナとコーンとマヨネーズのサンドイッチだった。
腹ペコだし本当はすぐにでもがっつきだかったけど、彦丸の食指はすぐに動かなかった。
かわりに炭酸水を勢いよくストローから飲んだ。

「どうしたの、うかない顔して。」
 ユエは心配そうにたずねた。

「ネルソンはハルルを疑っている。」
 ストローから口を離すと彦丸は言った。

「ばかいわないで。私たちのシステムは、機体をロストさせるような代物じゃないわ。原因は他にある。」

「僕もそう思う。だけどバグの可能性は捨てきれないとさ。」

「ないものをないと証明することはできないわ。」

「ネルソンは原因をハルルに押しつけて、このプロジェクトをつぶしにかかっているんだ。」
 彦丸は言った。

「つぶすって……この宇宙船のこと? どうして!」
 ユエは驚きのあまり声がうわずった。
「船はここまでできあがっているのよ。今さらやめるだなんて頭おかしいんじゃないの?」

「この船は金食い虫だからさ。今も、これからも。」

「だからってこれまで投資したぶんをドブに捨てるなんて……」

「そうでもないさ。あの船は客船にも転用できるからね。」
 彦丸は建造中の船を見た。
「短期的には外惑星に行っても得られるものは少ない。いや、長期的に見ても損するだけかもしれない。人工知能やロボットの技術がどんどん発達しているからね。そのうち人間が行かなくても、外惑星の資源を採掘できるようになる。だから世界一大きな豪華客船を宇宙に浮かべて、月と火星を往復するほうが理にかなっている。ビジネスとしてはね。」

ユエは口をすぼめた。
結論を求めているときの仕草だということを彦丸は承知していた。

「要するにネルソンは木星と土星に行く計画だけを潰したいのさ。」

「そんな!」

「僕が彼の立場だったらそうするかもしれない。いや、必ずそうするだろうね。彼は木土往還プロジェクトに対して僕ほど思い入れはないのさ。」

「だったらどうするの?」
 ユエは言った。
「ハルルに欠陥があるんだったら、私だって治したいわ。でもどうやってもバグを見つけ出すことはできなかった。人工知能のバグを検出できるのは人工知能しかないわ。でも、あれより賢い人工知能はないのよ……」

「わかっている。もちろん手は打つさ。君はなにも心配する必要はない。それと……先生とは連絡をとれたか?」

「いいえ。」
 ユエは首をふった。
「彦丸、あなたも先生ならありもしないバグを見つけて解決できると信じているの? ハルルはもう私のものよ。私以上にハルルを理解できるものはいない。」

「君を信用していないわけじゃない。」
 彦丸は言った。
「ただ……」

「ただ?」

「急に彼に会いたくなってね。」
 彦丸は静かな声で言った。
「どこかで野垂れ死にしていなければいいのだけど。」

「先生らしいわ。野垂れ死にって。」
 ユエは笑いながら言った。

「たしかにね。」
 彦丸もおかしくなって笑ってしまった。

彦丸はユエからもらったサンドイッチに手を付けた。
パンの表面は乾燥して少しザラザラだった。
ユエと話しこんで思った以上に時間が経ったらしい。

早く食べて、次の打ち合わせの準備をしなくちゃ、と彦丸は思った。


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