見出し画像

月面ラジオ { 32: 彦丸 }

あらすじ:(1) 30代のおばさんが、宇宙飛行士になった初恋の人を追いかけて月までストーカーに行きます。(2) 月美は、月で働くことになりました。

{ 第1章, 前回: 第31章 }

男は会議室に入り部屋を見回した。
十七人までが一堂に会するドーナツ型の円卓があった。
まだ誰も着席していなかった。

黒い布ばりの椅子は、これから広告の写真でも撮るつもりなのか、一切の乱れなく、正確に十七等分の間隔を保ったままだ。
あと五分で会議がはじまるというのに、まさかひとりも集まっていないとは。

驚いてはみたものの、男はすでにその驚きに慣れている自分にも気づいていた。
これから始まるのは、天下のルナスケープ社のボードミーティングだ。
遅刻する輩がいるはずもなく、開始と同時に全員が姿を見せるだろう。
そして一秒の遅れもなく会議は始まる。
わかりきったことだ。

男は思う。
電脳秘書がスケジュールを管理できるようになってから「遅刻」というものはなくなってしまった。
人と人が会うときは、お互いの電脳秘書が都合のいい時間と待ち合わせ場所を決めてくれる。

「明日、どうよ?」

「明日は先約があるんだ。ランチミーティングでね。そのあとでいいなら、二時まで空いてるよ。」

「オーケー。それでよろしく。」

こんなやり取りが、瞬きをするよりも短い時間でなされているのだろう。

もしどちらかの都合が悪くなったとしても、おたがいの電脳秘書が勝手に話しあって待ちあわせの時間を変えてしまうのだ。
瞬きするよりもはやく。
ただ話すだけなら、待ち合わせ場所は仮想空間になるので遅れようがない。
「人が遅刻しなくなる」というより、「電脳秘書が遅刻させない」といった方が正確かもしれない。

待ちあわせに遅れることはなくなったけれど、代わりに前もってやってくることもなくなってしまった。
近ごろでは、今まさに男の過ごしてる開会を待つひと時でさえムダだという風潮だった。

男は円卓をぐるりと回って、窓へ歩みよった。

摩天の塔からは、人工の空がそこに見てとれた。
うすぼんやりとした青い光の中に雲をあらわす白い影が流れている。

頂きから見下ろせば、まさに過密に過密を重ねてつくった鉄骨の森が広がっている。
ビルの上にビルがあり、ビルの下にビルがあり、ビルの間を鉄の路面が橋渡ししている。
橋を行き交う車や鉄道の様子がここからでもわかる。

ビルの中では、電動ノコギリのように経済が回転し、人やロボット、電脳とよばれる新たな知能が一丸となって月の砂から利益を絞っている。
月の砂漠で採掘するヘリウムは、人類にとって最も重要なエネルギー資源となった。
その埋蔵量は、世界中の発電タービンを回し続けても使い切るのに十世紀かかると言われている。
「月は太陽より地球を照らす」と言われる理由がこれだ。

「地下でうごめくこのかたまりが太陽だって?」

こんなふうに吐き捨てることがたまにある。
ただのアリの巣じゃないか、と。

けれど心底バカにしているわけでもない。
自分がアリの一匹だということは自覚しているし、なんとなればこの巣を掘った張本人だとも自負している。

そう自嘲してしまうのは、もう月面都市に魅力を感じていないせいなのだろうか。

子供のころからあこがれていた月だというのに。
いざ来てみると、思ったよりも面白くない。
というよりも飽きたのだ。

低重力が楽しいのは最初だけだった。
天井に頭をぶつけて仲間と笑ったのもはじめの数回きり。

ひとしきり笑った後には、過酷なトレーニングの日々が残された。
月に滞在するためのトレーニングだ。
筋肉や骨の強度がある水準を下回れば、二度と地球の重力耐えられなくなる。
そうなる前に地球に降ろされ、トレーニングよりもさらに辛いリハビリに励むことになる。

「僕は月に失望しているのか?」

そのとおりだ。
勝手に期待して勝手に失望しているだけだ。
月が悪いわけじゃないし、誰かが悪いわけでもない。

とうぜん僕が悪いわけでもない。
飽きてしまうのは、どうしたって避けられないことなのだ。
三歳で覚えた砂遊びをおとなになっても本気で楽しんでいるヤツなんて見たことがない。

「なら、地球にもどるのか?」

そう訊かれたところで、「まさか!」とひとこと投げ返すだけだろう。
そんなの一秒だって考えたことがないのだから。

もし地球に降りようものなら、その時点で次の星へ進めなくなる。
次の星へ行く船は、この月から出発するのだ。
その船は、月の軌道上で造っている最中だ。

はやく次の星に行きたい。
なのに……こんな会議に出ているヒマはないというのに……

男はさらに一歩、窓へ歩みよった。
ビルから飛びおりんばかりの張りつめた顔が窓に映った。
そのとき不思議なことが起こった。
男の足元から水が湧いて出たのだ。

水は、山の土からしみ出る泉ほどのものだった。
でも間もなくして勢いよく流れだし、湧き水から清流、清流か唸る川となった。
そして、会議室から滝となって水が放たれていった。

つい今しがた会議室に立っていたのに、男はいつの間にか滝の淵いた。
見上げると、天井は消え、空が拡がった。
鉄骨の都市は消え去り、はるか眼下に爆撃のような飛沫をあげる滝壺があった。
あたりを見渡せばそこは大平原だった。
大地には巨大なアーミーナイフでえぐったような亀裂がはしっていて、縁の両側から大量の水が大地の底にむかって降りそそいでいるのだ。

いつのまにか風光明媚な自然の只中となっていた。
おそらくアフリカに実在する景勝地のひとつなのだろう。
あるいは秘境の大瀑布か。
あるいは誰かの夢の中か。

男は水の上に立っていた。
水面というよりも、その上にある透明な板の上に立っているようだ。
もっとも、板の上に立っていようが、聖者のごとく波紋を広げながら水面を歩こうが、あるいは川底にどっぷり足をつけていようが、それにたいした違いはない。
水の中に飛びこんだところで男の服は濡れることがないのだ。
これはただの幻なのだから。

円卓だけが変わらずのこっていた。
はげしい川面に椅子が並んでいるのは不思議な光景だった。

「まるで魔法ですね。」

声をかけれ男は顔をあげた。
すぐ横に巻き毛の金髪の若者がいた。
黄色の派手なアロハシャツにえんじ色の海パンを身にまとっている。
履いているのは黒の革靴で、足元だけはなぜかフォーマルだった。

これから経営会議にのぞむ服装とは思えなかったけど、せいぜいジャケットを羽織るくらいのみずぼらしいナリで参じている自分がそれを指摘する権利もなかった。

「高度な技術は魔法と区別がつかない。昔の偉い人が言ってたよ。」
 男は答えた。

「仮想空間はその最たる例の一つですね。いや、もう仮想世界と呼ぶにふさわしい段階かな。」

「おはよう、ロニー。君も呼ばれていたのか。」

「いえ、呼ばれたわけでは……」
 ロニーと呼ばれた男は答えた。
「ほんとうはユエが出席するはずだったのですが、代理で俺が出席することになりました。ユエは直前で体調を崩したというか……ばっくれたというか……」

「それはなんというか……」
 男は言った。
「すまなく思うよ。」

「あなたが謝ることではないですよ、彦丸。」
 ロニーは言った。
「気に入らないようですね。」

「え?」

「気に入らないようですね、ここが。こんなにもきれいな景色なのに。」

「どうもこういうのは好きになれない。」
 彦丸は言った。

「どうして?」

「空を見たければ地球に降りればいい。」

「空をうつすのは、俺たちみたいにずっと月にいるヤツへの気遣いですよ。」

「僕がほしいのは実感だ。幻影じゃない。」
 彦丸はもう一度、大地の底を見下ろしながら言った。

「お前の言うところの実感には遠く及ばないかもしれないが、いまこの瞬間からは実務の時間だ。」

彦丸とロニーは驚いてふりむいた。

ネルソンが円卓に座っていた。
彼は、ルナスケープ宇宙開発事業の社長にして最高経営責任者、宇宙経済にもっとも強い影響を与えるといわれる益荒男だ。
今日も今日とて南アフリカ国旗柄のネクタイで丸太のような首を締め上げている。

ネルソンだけじゃない。
彦丸とロニーを除く出席者十五人が着席していた。
全員がこちらを見ている。

「さっさと座ってくれるとありがたい。」
 ネルソンは静かに言った。

ロニーは急いで間近の席にかけよった。
彦丸もひとつだけ残っていた席についた。
議長のネルソンは、彦丸のせいで会議の開始が十秒遅れたと言った。

せっかく最初に来たのに、いちばん遅れてしまうとは……
そんなふうに思いながら、彦丸は円卓の面々を眺めた。

普段はめったにお目にかかることのない経営陣の御歴々がならんでいた。
月拠点における最高執行責任者、エミリア・ゼタジョーンズは古参の幹部だ。
いつもの白いスーツを着て、ネルソンの左席に座っている。
対して右席にひかえるは、上席副社長としてゴーゴエ社からスカウトされたばかりのナデラ氏だった。
次期ルナスケープ社の社長候補と目される若き月の実業家だ。
エンジン部、空気循環機部、自動運行システム部などの各部門の研究開発ヘッドたちもいて、ロニーも含めて彦丸の顔なじみが何人かまじっている。
地球本部の幹部もふたりいた。
いつもどおり超長距離通信での参戦だ。
他にも常務執行役員だのなんちゃらエグゼクティブディレクターだの、意味もよくわからない役職の幹部たちがズラリだ。

それにしても、いざこういった会議に出席すると、自分が幹部の名前をほとんど憶えていないことに気づく。
この人たちの名前を一生懸命憶えていた時期も確かにあったけど、けっきょく役にたった試しもないので、だいぶ前にそれもやめてしまった。
もし自分に電脳秘書がいれば、名前を忘れてもこっそり耳打ちしくれるのだけど。
なんとなれば、上司の誕生日や、食べ物とインテリアの好み、この前もらった贈り物などもいっしょに教えてくれる。
まあ、電脳秘書なんて使わないと周囲に宣言している手前、上司にいかにもなプレゼント(昇進の競争相手が贈ったものよりもちょっぴり気が利いていることが大切だ)を贈るためだけに電脳秘書を雇うことはありえないわけだが。

「さて……」

ネルソンが深く落ち着いた声で切り出した。
とたんに滝壺の音がピタリとやんだ。
足元の水流が氷のように止まっているのに彦丸は気づいた。
水だけじゃない。
草木も風に吹かれたままの姿勢で蝋のように静止していた。

世界が止まったようだ。
上映中の映画がいきなり停止したので振り返って映写機を確認するような面持ちで全員がネルソンを見つめた。
これをやられると否応なくネルソンに注目せざるをえなくなり、演出としてはこれ以上ない手だと彦丸はいつも思っている。

巨大な静止画の中で会議が始まった。
ネルソンの低い声が響きわたった。

「この言葉をこれまで何度言ったことか……ルナスケープは危機を迎えている。創設以来、最大の危機だ。」

彦丸の記憶している限りでは、「最大の危機」はこれで七回目だった。
たった数十年で最大の宇宙企業にのしあがった歴史にあって、その道中は紆余曲折の連続である。
危機なんてものはそれこそ売るほどあった。
その頃を知っている幹部やベテランのエンジニアの何人かに苦悶の表情がみてとれた。
彦丸もそのうちのひとりだった。

「我が社の無人輸送船からの連絡が途絶え、一日たってもなお行方不明だ。本件はすでに第一級の事故として社内的にも対外的にも扱われている。」

「ここにいる全員がすでに承知しているとおり、本日中に調査委員会を発足させる。」
 ネルソンは続けた。
「おもな任務はふたつ。行方不明となった船の捜査および原因の解明だ。機器の故障、ソフトウェアの障害、人為的ミス、テロ及び犯罪など、さまざまな観点から調査を始めるつもりだ。社内、社外を問わず各分野の専門家に協力を仰がなければならない。普段は会議などには一滴の興味も示さないエンジニア諸君にも、部門を代表して集まってもらった次第だ。」

なんの前触れもなく、紙の束が出席者の前にあらわれた。
表紙には「無人輸送船三〇七型機の失踪についての第一次調査報告(極秘)」と、硬いフォントで記述してあった。

「現時点でわかっていることが、ここにまとめらている。長々と書いてあるが、要約すれば『原因はいまだ不明だし、船も行方知らず』のひと言つきる。こんなことは……」
 最後の一言は妙にドスが聞いていて、隣のナブラ氏はまるで自分が犯人扱いされたようにぎくりとなった。
「前代未聞だ。」

ロニーだけが何事もないかのように報告書をパラパラとめくりながら意見を述べた。

「毎年、何千もの無人機が月と地球付近を往復しているんですよ。一台くらい故障するのは当たり前でしょう?」

「故障の原因がわかっていないから異常事態なのだよ、ロニー坊や。」
 ネルソンは言った。
「私の言いたかったことが伝わらなかったわけじゃあるまい?」

「冒頭で『事故』と表現したことですか。事件でなはなく、第一級の事故だと。なに、ちょいと確認をしたいだけですよ。まさかあなたまでが『人工知能が暴走して人間に牙をむく』だなんてネタにとりつかれてないかってね。」

「まさか、まさか。」
 ネルソンは首をふった。
「ただし、自分たちの作ったものが完璧だと思うことこそ妄想だとも申し上げておこう。君たちのハルルに致命的なエラーが決してないわけではないし、決して乗っ取られないわけでもない。今のところそのような事態が起きていないことももちろん承知している。私は、原因が分かるまであらゆることを想定すべきだという一般的な意見を述べているにすぎない。」

「おっしゃる通りで。」
 ロニーはうやうやしく言った。

全員が円卓の中心に目をやった。
円卓の中心、ドーナツの穴のような空洞の中に宇宙船が現れたからだ。

ルナスケープ三○七型機が、ラグランジュの港から発進する様子が映しだされていた。
仮想空間向けの資料映像のようだった。
その傍らでは、まだ学生にも見える南米系の女性レポーターが、ラグランジュ港の報道室から今回の失踪事件のあらましを伝えていた。
月のローカル局「月面ブロードキャスト」の報道番組だ。
「月面ニュース・アンド・ウェザー」のアーカイブ放送にちがいない。
彦丸が今朝みたものとまったく同じだった。
三○七型機は彦丸の横をかすめて飛んでいき、背後の草原のむこうへと消えていった。
円卓の中心には、必死に何かをしゃべるレポーターと、昔ながらのニューステロップが残されていた。
テロップには、白い背景に赤文字でこんな煽り文句が記されていた。
いわく、「自動運行システムの障害か?」「人工知能の黒い罠! ?」「民間機のリコールもありえるか?」「ルナスケープ社、今季の財務諸表の見通しを下方修正」などなど。

「世間は紋切の反応で我々を非難している。トーストにピーナツバターを塗りたくりながら朝のニュースをみて、内心で他人の失敗を笑いながら、傲慢な経営に起因する品質の低下だの、人工知能の暴走による予見しえた事故だのと、知った口でご意見のたまう連中の顔が見てとれる。」
 ネルソンは出席者全員を見わたした。
「だが神経過敏な反応、大企業に対する典型的なバッシングとタカをククってくれるなよ。この世界において事故を起こす宇宙船の大半はルナスケープ社製だ。なぜなら宇宙船の大半を我々が造っているからだ。君たちには宇宙企業としての責任を胸に刻んでこの件に取り組んでほしい。」

ネルソンの一喝とともに具体的な議論がはじまった。
ゼタジョーンズ最高執行責任者が、調査委員会のチームの体制について、あるいは詳細なスケジュールや定期的に開かれる会議体について説明するのを一生懸命聞くフリしながら彦丸はぼんやりしていた。
もちろん対岸の火事だと言わんばかりの態度は取りたくはなかったけれど、それでもまったく興味のない話というのは、いつも垣根の向こうにある他人んちの会話のように音も届かずただ過ぎ去っていくものでしかなかった。

それよりも目下彦丸の頭を支配しているのは木土往還宇宙船のことだった。
自分はその船の開発をしているのだ。
会議ではなく、開発だ。

新型のエンジン(これは彦丸の通っていた田舎の学校の校舎よりも大きなものだ)の開発はこの上なく順調で、月に取り付けたって動かせてしまいそうなほどの超馬力を見せつけた。
このエンジンを搭載した船は、木星を経て、足掛け三年半をかけて土星までたどり着き、そして月まで帰還できる。
惑星周辺での滞在期間もふくめれば、合わせて十年の往還の旅路だ。

エンジン完成の目処がたてば、あとは内装と外装をととのえ、船内設備を充実させるのみだ。
無重力、低重力における建築工学で宇宙のキャリアを開始した彦丸の得意とするところだった。

大量の空気と水を供給するための地球型循環システム、天然・人工問わずすばらしい知能が集って史上最大の船を繰るであろう操舵室、例えるなら雷がくり返し爆発しているようなプラズマ・エンジンを監視し制御するための機関室、航行中にも機材の開発や修理をするエンジニア・チームのための施設(これはさながらベンチャー企業のようなところだろう)、世界中から集うクルーたちに満足してもらうための食堂や運動場、トマトやハーブを育てられる水耕栽培型の農場、休暇の娯楽のひとつとしての映画館(もちろん最新作を地球と同時上映だ)、仮想図書館や宇宙を見渡せるカフェテリアなど、まだまだ船に盛りこまなければならないものはいっぱいある。
それだけ大きな船だし、効率的な船内物流システムの構築も必要だろう。

むかし、廃墟の天文台を再生させ、自分と友人だけの理想の隠れ家を作ろうと計画したことがあったけれど、今感じているのはそれ以来の興奮だった。
作ろうとしているものの規模は比べるべくはないけれど、思い返してみれば自分が「再生の計画書」と呼んでいた資料にもあれこれと欲しいものを詰めこんでいたものだ。

まもなくクルーの選考がはじまる。
七年間、ともに旅する仲間たちを集めなくてはならない。
航空エンジニア、ロボットエンジニア、船外活動スペシャリスト、航宙士、ジャーナリスト、そして科学者……
彼らがそろうことで初めて船は船として使命を果たせるようになり、完成するのだ。

造船、採用、すべての仕事は鬼のように忙しかった。
まさに「忙殺」と表現するに足る日々だ。
それでも彦丸にとって、これ以上に充実した時間はなく、使命は言葉の通り命をかけるに値した。

ああ、そうだ。
そういえば、そろそろ書類審査を通過した候補者たちとの……

「興味なさそうだな?」

彦丸はハッとなって顔をあげた。
あたりを見回すと、滝が消え、元の会議室に戻っていた。
人の数もはっきりと少なくなっていた。
何人かはまだ残って立ち話をしていたけれど、会議が終わったのは明らかだった。
そして目の前にはネルソンが立ちはだかっている。
にらみつけるような表情でこちらを見下ろしていた。

「そんなに話はつまらなかったか?」
 ネルソンは言った。

「とんでもない。」
 彦丸は慌てて言った。
「最高のジョークでしたよ。とくに体重計に乗った時のくだりなんか……」

「それは先週披露したやつだ。これ以上ないほど不評だったよ。」

彦丸はバツが悪いままネルソンの顔を見た。
あいも変わらず力強く、大きな頭部だった。
黒い肌の上に白い目玉がひかり、妙に印象にのこる。
身長は彦丸より低いはずだが、体格ははるかに上回っている。
彫刻刀でほったような深いシワ、タイヤのような分厚い肌、丸太のような首。
どれも彦丸が決して手に入れられないものばかりだった。

ここは仮想空間だ。
いま目の前にいるこの男も、じつのところ映像にすぎない。
それなのにどうして、本当にその場にいるかのような迫力を醸しだせるのか。
そんなことができるのは、彦丸の知る限りネルソンだけだった。
大地が裂け、水が降りそそいでも滝のリアリティを認めなかった彦丸だけど、ネルソンだけは別格だ。

「自分は関係ないと思うなよ。」
 ネルソンは続けた。
「ハルルは……人工知能は、宇宙の物流になくてはならない。木土往還宇宙船のような巨大システムならなおさらだ。もし致命的な欠陥があれば、木土往還船のプロジェクトは破滅するかもしれないぞ。」

「バグやセキュリティホールの可能性はユエに当たらせています。」
 彦丸は言った。

「ヤツは見つかったのか?」

彦丸は首をふった。

「ネルソン、あなたもハルルを疑っているのですか?」

「可能性があるなら何だって疑う。それが私の仕事だ。」
 ネルソンは言った。
「とにかく何としてでもやつを見つけ出せ。いいな。」

「わかりました。」
 彦丸はうなずいた。
 それから小さな声で言った。
「もう行きます。」

「報告を怠るな……」
 最後にネルソンが言った。
 その声は古いラジオのつまみを回すように小さくなっていった。
「なにかわかればすぐ連絡をよこすんだ……もう一度言うぞ……報告を……」

声は彼方へ追いやられ、やがて聞こえなくなった。

とたんにネルソンが停止し動かなくなった。
目は見開かれたまま瞬きをこばみ、赤茶けた銅のような唇は閉じて硬貨一枚分のすきますらなかった。
鼻腔の縁ですら、小虫一匹分の些細な運きも見てとれない。
教会の近くで銅像のフリをする大道芸人になったかのようだ。

止まっているのはネルソンだけではない。
周囲に居残っていた者も、まるで生き物を固める注射でもうたれたかのように、一定の姿勢を保ち続けていた。
上級副社長のナブラ氏は、もしかしたら同郷の仲間を見つけたのか、インド系のエンジニアとはじめましての握手をかわそうと手を差し伸べているところだった。

彦丸の見ている景色はただの写真となった。
あたりが完全停止した。

退出します。

という、赤い文字が視界の真ん中で明滅した。
いま彦丸の視界のなかで確かに動いているのはそのメッセージだけだった。

退出しました。
ゆっくりとゴーグルを外してください。
お疲れ様でした。

最後にねぎらいの言葉が読めたけど、やがて何も見えなくなった。
視界は真っ暗だ。
シャットダウンだ。
世界がシャットダウンした……


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?