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月面ラジオ {59 : トイレ }

あらすじ:月美は、木土往還宇宙船の完成式典に(無断で)参加していた。

{ 第1章, 前回: 第58章 }

青野彦丸は、階段の踊り場で立ち止まった。大広間を見渡し、そしてゆっくりしゃべり始めた。

いまこの場にいるすべての人に感謝します。みなさまの力がなければ、木土往還宇宙船だなんて途方もないモノ、決して作ることはできなかったでしょう。感謝のひとつに過ぎませんが、このささやかな式典を楽しんでいただけたなら嬉しい限りです。

ここに来られなかった人たちにも同じく感謝を捧げます。式典に招待できなかった人たちがいるのは残念でなりません。彼らがいなくてもやはり船は完成せず、また、外惑星に向けて出港させることもできません。これからもご助力いただくようお願いする次第です。

さて……せっかくこのような場に立ったのだからもう少しだけ話をします。安心してください。僕は社長のネルソンほど雄弁ではありませんし、手短に終わらせるつもりです。ほんの数分の辛抱です。

僕の息子は地球に行こうとしています。息子のアルは月生まれで、地球に降りたことが一度もありません。生まれつき体が弱く、また月の重力では骨と筋肉が十分に発達せず、地球の重力にはとても耐えられないからです。

ちょうど一年前のことです。アルは両足の骨を同時に折ってしまいました。なんてことないトレーニングの最中にです。治療とリハビリには、半年以上もの時間が必要でした。それほどアルの身体は脆く、まるでふ菓子のようだというのが彼自身の言葉です。

それでもアルは体を鍛え続けています。骨がきしみ、筋肉が悲鳴をあげ、肺が裏返っても、アルはバーベルを持ち続けます。耐えられるギリギリの負荷を見極め、徹底的に体を痛めつけ、それを日課としなければならないのです。失敗すればまた病院行きです。だからといって、辛いトレーニングをやめてしえば、地球到達は永久に叶わぬものとなるでしょう。これが、死ぬまで続けなければならないと彼自身で決めた使命なのです。

あるとき、僕はアルに質問をしました。そうまでしてどうして地球なんかに行きたいんだ、と。アルは答えました。行ったことがないからだ、と。およそ答えとは言いない回答ですが、それでも僕はアルの言葉に二つの思いをいだきました。

一つ目は「僕はなんてバカなんだろう」です。

ここにいる人たちは、まちがいなく旅行が好きなはずです。さもなければ、宇宙なんてとうてい来たいとは思えないからです。だから「どうしてあの国に行きたいんだ?」と誰かに尋ねたしても、「どうして旅行なんかに行きたいんだ?」と質問することはないでしょう。僕は、その質問をアルにしてしまったわけです。

月の限られた場所でしか暮らすことのできないアル……彼が旅できる場所は地球だけです。地球からだと滅多に行けないラグランジュ城でさえ、アルにとっては郊外のショッピングモールでしかありません。地球しか旅先がないのに、どうして地球に行きたいんだと訊くのは、いささか無神経でした。少なくとも、アルをよく知る家族のするべき質問ではありません。

同時に、アルの言葉は僕自身の過去を思い出させてくれました。これが二つ目です。郷愁と表現すればよいでしょうか。ふさわしい言葉をうまく見つけられません。

行ったことがないから行くんだ……僕もかつて地球でそんな風に言ったことがあります。幼馴染の女の子に「どうして月に行きたいんだ」ときかれたとき、僕はそう答えました。

彼女は、「月に街をつくる」という僕の言葉を疑わなかった。さらには「大きなな船を作って月から別の星に向けて出港するんだ」という、せいぜい望遠鏡くらいしか作ることのできない無知な中学生がのたまうには途方もない構想を、「すごい」と言って彼女は感心してくれました。大人になって思い返せば、それがどんなにありがたかったことか……言葉では表せない感謝があります。

一方で僕はアルのことを疑っていました。口先では応援すると言っておきながら、とうてい地球に降り立つことはできないと思っていました。それどころか、アルのムチャをどこかで止めるのが親としての務めだと思っていました。アルの努力を一番ちかくで見ていたはずなのに。はずかしい限りだ。

僕がアルに伝えるべきことがあるとすれば、「お前ならできる。努力すれば願いは叶う」などという無責任な言葉ではありません。失敗するかもしれないし、後悔するかもしれない。アルを心から思いやっている人を悲しませるだけの結果で終わるかもしれない。「それでも地球を目指してほしい」というさらにずっと無責任な僕の本音です。

アル、君が地球に行けるのかどうか僕にはわからない。努力したって叶わないことなんていくらでもある。反対に、たんなる偶然で偉大なことを成し遂げることだってある。

ならば僕たちは未来を運命に委ねなければならないのか? それはぜったいにちがう。

運命なんてものはない。僕たちが歩いてきた道を運命と呼んでいるだけです。

もし運命というものが存在するなら、それとは違う道を選べることに人の尊さがあるのではないでしょうか。人を人たらしめるのは、自分の歩く道を自分で決めるという硬い意思です。それだけです。

もし慣れた道を漫然と歩いていると思ったら、立ち止まって目を凝らしてください。ほかに道はありませんか? それは、細く険しい道ではないでしょうか? だれも歩いていないかもしれません。行き先は遠く、果ては見えないはずです。

その道を歩いてください。昨日とはちがう道を歩いてください。人とはちがう道を歩いてください。誰もいないからこそ歩くべきなのです。

さもなければ、僕たちはどこにも行くことはできません。険しい道を選んだからこそ、地の果て、空の彼方、海の底、そして月までたどり着いたのです。

旅をしない音楽家は不幸だ。モーツァルトの言葉です。モーツァルトの時代と比べて、世界はうんと広がりました。

人が旅を続けたからです。命を危険にさらす大地を、人を飲み殺す深い森を、凍てつく山岳を、すべてを押しつぶす深海を……行き先がどこであろうと人は必ずたどり着く。

僕たちは月に来たんじゃない。月で旅をしていたんだ。でも旅は終わった。月はもう都会になった。

見たことのない風景があるなら、次はそこに行かなくちゃならない。月で生まれた子は地球に旅立ち、地球で生まれた子は次の星に旅立つのです。

月美は式典の会場を去った。大雨のように降り注ぐ拍手の中、ひとりだけ駆けていた。途中で芽衣とすれちがった。「月美ちゃん、どうしたの!」と声をかけてきたけど、それを無視して外に出た。

芽衣がトイレに駆けこんできた。それから月美のこもっている個室の扉をバンバンと叩いた。

「月美ちゃん! だいじょうぶ?」

「大丈夫だ。心配しないでくれ。」

月美は落ちつきはらって言ったけど、芽衣はさらに声をあげた。

「心配しないわけないじゃない! いったいどうしたの?」

「なぁ、芽衣、あいつのスピーチ良かったよな? 映画でしかお目にかかったことのない光景だったよ。」

月美は、扉越しに芽衣へ語りかけた。

「おなじ町内に住んでいた男の子が、拍手を浴びながら人前で堂々と話をしているんだ。二十五年ぶりに見た姿、聞いた声だった。まぶしかったよ。」

「月美ちゃん……」

「月にくれば、あいつに追いついて、肩を並べられると思ってたんだ。」

「だったら今がその時だよ。青野さんならまだ会場に……」

「そうは思えないな。あいつは私のはるか先を歩いている。とんでもなく遠いところを見据えながら。どんなにそばに近づいても、あいつとの距離はまったく縮まらなかった。私は、あいつともう会えない。それが運命だって思っていた。」

芽衣は何も言わなかった。扉の向こうで黙って月美の言葉を待っていた。

「わかってる。」
 月美は言った。
「運命なんかじゃない。私に勇気がないからだ。忘れられいてもかまわなかった。ふられることだってこわくなかった。でも、あいつが無関心だったら? たとえおぼえていても、今の私に興味を持ってくれなかったら? あいつにとって、私はなんの価値もないという事実を突きつけられのはたまらなくこわい。」

「だけど、いま話しかけないと……」

「そんなことはわかっている!」
 月美は叫んだ。
「いま話しかけないとあとで一生後悔する。でもだめなんだ。死ぬほど後悔するとわかっていても、はじめの一歩を踏み出せる人は少ないんだ。みんな芽衣のようにはいかない。」

「手に入らないものを欲しがるより、はじめからいらないと思っていれば気が楽なんだ。」
 月美は続けた。
「そう思うようになってから、自分のことがたまらなく嫌いになった。おまえと月を目指す前はずっとそうだった。でも、月に来ても私は何も変わっていなかった。今夜はそれがよくわかったよ……」

「きいて月美ちゃん。」
 しばらくして芽衣が言った。
「私ね、この船に乗るかどうか迷っているの。クルーの試験に合格したわけじゃないんだけどね。」

「どうして?」
 月美は驚いて顔をあげた。
「外惑星に行くのは芽衣の目標なんだろ?」

「お母さんとお父さん、それに月美ちゃんと会えなくなるのがさみしいから。」
 芽衣は言った。
「外惑星に行っても行かなくても、私はきっと後悔すると思う。ほしいものがある限り、どんな道を選んでもつらいことだらけ。だったら青野さんを忘れるのだって悪いことじゃない。月美ちゃんはそっちのほうが幸せになれると思う。何もしないと決めるのも決断のうちよ。私は月美ちゃんが選んだならそれを尊重するし、どんな道を選んでも、私は月美ちゃんのことを尊敬している……」

まもなく芽衣はトイレを出ていってしまった。残された月美は、その場でうずくまることしかできなかった。十分、二十分と時間が経ったけど、トイレにはだれもやってこなかった。月美は、それがありがたかった。

結局、月美はトイレで三十分ほど過ごした。気持ちは落ち着いてきたけど、どうもめまいがするので、医務室で休むことにした。パーティーで疲れたというよりも、仕事の疲れがどっと押し寄せたようだ。思い返してみれば、パーティーに潜入している時から気分がよくなかった。医務室なら月美も入っていいので、気楽に過ごせるはずだ。

医務室に入ってすぐ月美は立ち止まった。シャルマ先生のデスクが空っぽだったからだ。受診中の人もいなければ、診察台で寝ている人もいない。受付の電脳秘書だって姿を見せなかった。医務室はもぬけの殻だ。

「シャルマ先生?」
 月美はあたりを見回しながら、小さな声で呼んでみた。

返事はなかった。

医務室なのに船医がいない? 先生もパーティに行ったのかな。

不思議ではあったけど、月美は気にせず中に入った。無断でパーティに潜りこんでいた手前、だれもいない方がむしろありがたかった。

医務室には白いシーツのベッドが三台並んでいた。普段は壁に寝袋がかけてあるだけで、ベッドだなんてかさばるものは置いてなかったはずだ。パーティの招待客のために、今日だけ特別に用意したのだろう。ご苦労なことだ。

月美は医薬品の並んだ棚に目を留めた。胃腸薬があるはずだけど、先生がいないのに棚をあけるわけにもいかなかった。

「せっかくだし、ベッドで寝かせてもらうか。」

月美はドレスを着たままベッドに潜りこんだ。無重力で横になるというのも変な話だが、それでも目を閉じて布団にくるまれば、地球にいる時とかわらず夢心地になれた。

「結局、また何もしないうちに失恋か……ちがうか……何もしなかったから失恋したんだ。」

やがて月美は眠りに落ちた。まだ動くはずのないこの船が、木星に向かって動き出していることなど知る由もなく……


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