{ 52: ミドさん }
◇
ロウが扉を叩くと、部屋の中から体の大きな老婆が出てきた。老婆は、ひと目見るなりロウを殴りつけた。
「ロウ、あんた! 今まで、どこ行ってたんだい!」
ロウは吹き飛ばされて尻もちをついた。春樹は、唖然としながらふたりを交互に見た。
「おうイテぇ……」
ロウがお尻をなでながら立ち上がった。
「やっぱりまだくたばってなかったか。ババアのくせに元気だな、あいかわらず……」
「いきなり家を出ていったかと思うと、二年間も顔を見せないで!」
老婆は玄関を出てロウの目の前で仁王立ちをした。
「上の街で暮らしてたんだ」
ロウは言った。
「しかたないだろ? 働いていて、忙しかったんだ」
「そいで、こっちの子は誰だい?」
老婆は、春樹に目配せをして言った。春樹は、最初にいた場所から五歩も六歩も退いていた。
「俺の仕事仲間だよ。ちょいとワケありで、一緒に暮らしていたんだ」
「いまさら私に何の用だい?」
「やっかいなことになったんだ」
ロウは言った。
「厄介事にならなきゃ、あんたは親の顔を見に来ないのかい? 自分の都合のいい時にだけ、このババァを頼るってか? なんて見上げた子だい」
「夢を見たんだ」
ロウは言った。
「夢がなんだってんだ?」
「うん、その、なんだ……あの悪夢のこと、まだ覚えているかい?」
「夢って……」
ふいに老婆の声色が変わった。
相も変わらず怒っている風ではあったけれど、明らかに戸惑っていた。
「まさか、あんた……?」
「イッショウの兄貴とニショウの兄貴が見たあの悪夢だよ」
ロウは言った。
「二日前から、俺も同じ夢を見るようになったんだ。ヒトヒラ先生が言うには、俺もケモノの戦士になるらしい……」
◇
「あんたたち、朝食はまだだろう? 待ってな、すぐ用意するから」
春樹たちを部屋の中に案内するなり、老婆は言った。それから台所に立つと、作りかけの朝食の仕上げに入った。
小さいながら食卓のある部屋だった。ちゃんと椅子のついている食卓だ。これまでずっと便器の隣りにある布団の上で食事をしていたことを思えば、食卓とはなんて贅沢なんだ。春樹とロウはそこに座って食事を待った。
「ミド……俺のいた孤児院の先生だ」
ロウが春樹にこっそり耳打ちをした。
「きついだろ? イッショウやニショウの兄貴たちだって、あのババァには逆らえなかったんだ。俺とハイタ兄ちゃんが孤児院を出たころにはもう引退していて、ずっとこの部屋でひとり暮らしをしているんだ」
ミドさんは、ボウルに山積みにしてあった菜っ葉を、煙が吹くほど熱した鍋に放りこんだ。ひとしきり鉄鍋の中をお玉でかき回したあと、調味料と仕上げ油をふりかけてコンロの火を止めた。それから食卓の真ん中に置いた大皿に、湯気のもうもうと立つ肉野菜炒めを盛った。電子ジャーで炊いたごはんを二人のお椀にたらふくよそい、ヤカンで沸かしたお茶をヤカンごと持ってきた。
「あの……ありがとうございます」
春樹はハンチング帽を脱ぎながら言った。
「遠慮せずかっこみな」
食卓にドシンと腰を据えると、ミドさんは言った。
「ふたりとも、ちっこいたらありゃしないよ」
春樹もロウも、すでにミドさんの身長を越えてはいたけれど、彼女にそう言われると、自分たちが十歳くらいに戻ったように思えるから不思議だった。そのとき、春樹はミドさんと目が合った。ミドさんの真っ赤な目が、春樹の黒い瞳を捉えた。ミドさんは、とたんに顔をしかめた。
「あんた、人間の子かい?」
「そうだ」
口ごもる春樹の代わりにロウが答えた。
「先月、拾ったんだ」
「犬や猫じゃあるまいし……」
ミドさんは呆れながら言った。
「あの、まずかったでしょうか?」
春樹は、おずおずと尋ねた。
「僕がここに来たら……」
「人間の子と関わるのは御免だよ」
ミドさんは言った。
「ロウ、あんたにだって、その理由はわかるだろう?」
「まぁそう言うな」
ロウは、気にせず炒め物に箸を伸ばした。
「まずは朝メシだ。それから詳しい事情を話すからさ」
迷惑だと宣言された手前、春樹はなかなか食が進まなかったけど、代わりにロウがもりもりと食べ、食卓はあっという間に空っぽになった。ロウがよく作ってくれる料理と同じ味付けだったのでびっくりした。ロウは、湯呑についだお茶を飲みほすと、聞いているこちらも気持ちよくなるほど豪快なゲップをした。
「ロウ、あの悪夢を見たってのは本当かい?」
ミドさんが切り出した。
「あぁ」
ロウはうなずいた。
「イッショウとニショウの兄貴が見たやつと同じだよ」
「あぁ、なんてことだよ!」
ミドさんは、机を両拳で叩きつけんばかりにその場に突っ伏した。
「まさかあんたまでケモノなっちまうとは……そういや、ハイタはどうなんだい?」
ミドさんは顔をあげた。
「まさかあの子も?」
「今、どこにいるか知らないんだ」
ロウは言った。
「ただ、兄ちゃんはケモノの戦士にはなっていないと思う。もしそうなっていたら、ニショウの兄貴が教えてくれたはずだ」
「あ、あの……」
春樹が小さな声で割って入った。
「聞いてもいいですか?」
「なんだい、まわりくどいね?」
ミドさんが言った。
「ケモノになるのは、まずいことなんですか? シュオにとっても」
「好き好んでなりたきゃ、なるがいいさ」
ミドさんは言った。
「だけど、なんの理由もなく、子供がアレにされちまったらどうだい? 悪夢にさんざん苦しんだ挙げ句、ある日とつぜん髪が真っ赤になって、人間を憎むようになるんだ。そして、殺し合いに身を投じることが生きがいになるのさ。主様の命令あらば、いつでも、なんだってやってのける。戦士になるってのは、そういうことだ。それを喜ぶ親がいるとでも?」
「いいえ……」
春樹は首をふった。
「イッショウの兄貴が、あの夢を見るようになったのは、五年前のことだ」
ロウは言った。
「俺たちは『シュオの夢』なんて知らなかったから、毎晩大騒ぎだったよ。その時、兄貴を診察してくれたのがヒトヒラ先生なんだ。それからしばらくして、兄貴の髪の毛が急に赤くなった」
自分の髪の色も変わっているか気になったのか、ロウが頭を触りながら言った。
「その時点でもう兄貴は変わっていたな。そうだな……見た目や性格が変わったというより、なんというか、別の生き物になったようだった。もちろん兄貴は兄貴のままで、変わっていないはずなんだが……それから二年ほど経って、ニショウの兄貴も同じようになったよ」
「ロウ、あんた、今日からこの部屋を使いな。そのつもりでここに来たんだろう?」
ミドさんは言った。
「いいのか? 迷惑をかけちまうぞ?」
ロウは、珍しく遠慮した態度だった。
「あの夢を見たとなっちゃ、誰かの世話が必要だよ。最初のうちは、大量の汗の中に寝ションベンも混じるからねぇ」
「もうそんな歳じゃねぇ!」
ロウが声をあげた。
「なに、気にしなさんな」
ミドさんは笑いながら言った。
「あたしゃずっと孤児院で働いてきたんだよ。おもらしのシーツなんざ、それこそ何千枚と洗ってきた。それで、あんたはどうするんだい?」
ミドさんが急に春樹のほうにふりむいた。
「僕、もう出発します」
春樹は言った。
「何いってんだ春樹?」
ロウは驚いて言った。
「おまえもしばらく泊まっていけよ」
「ここはあんたの家かい?」
ミドさんがロウを咎めた。
「僕まで迷惑はかけられないよ」
春樹は言った。
「塔の脱出方法の目星はついたんだ。ひとりでもなんとかなりそうだ」
「この階の変電所を探すにしても、拠点は必要だろう?」
ロウは言った。
「俺たちが降りてきた『隠し階段』は、この街のビルにつながっていたけど、ビルの地下に変電所はなかった。変電所は別の場所に隠されているんだ。すぐに見つかりっこない」
「そうだけどさ……」
「なんの話をしているのかよくわからないけど……」
ミドさんが口を挟んできた。
「帰る所がないなら、あんたも泊まっていいよ」
「い、いいんですか!」
春樹は思わず声を上げた。ミドさんの態度から宿の確保はぜったいにムリだと思っていた
「かまわないさ。家で寝泊するくらいじゃ迷惑とは言わないよ。でも、あんたの正体は隠してもらうよ。あたしが人間を泊めていると近所に知れ渡ろうものなら、それこそ迷惑だからね」
それだけ言うと、ミドさんは大皿を手に取り、朝食の後片付けをはじめた。
「あの、手伝います!」
春樹も続いて立ち上がろうとしたけれど、ミドさんはこちらを見もせずに言った。
「いいよ。余計なことしないで、あんたは座ってな」
春樹が目配せしても、ロウは肩をすくめるだけだった。