{ 51: 変電所(3) }
◇
春樹とロウは、「二十二階の街」の夜道を歩いていた。巨大な塔の中に作られたこの街は、たとえ昼間のうちでも、どこもかしこも薄暗く、深夜ともなればなお暗かった。住民の姿が見えなくなるだけで、あたりはこんなにも不気味になるのか……
ふたりが目指している場所は、中央回路北側からさらに奥まったところにある。ロウの家は回廊南の大通りにあるので、目的地までかなり歩かなければならない。そうしてたどり着いた先は、生臭い匂いを放つ工業地帯だった。
工業地帯とは言うけれど、食品加工場(この街の名産は、魚肉団子だ。覚えておくように)を中心とした小規模の工場が、一区画内に詰め込められただけの狭苦しい場所だった。その実、骨ごと砕く食肉粉砕機や大鍋の蒸し器を、小さなビルや倉庫のような建てものに持ち込んだのを「工場」と呼んでいるに過ぎない。
立ち込める匂いと熱を逃がすため、建物の窓と扉は全開だった。それどころか、二階から上は窓枠があるのみで、ガラス戸をはめていない建てものも多い。ここにあるすべての建物が、人の体よりも大きなファンを夜にも稼働させ、染み付いた原材料の匂いを外へと押し出している。
「なるほど……」
春樹は、そこら中に山積みにされている使い古しの油の入った一斗缶を眺めながら言った。
「確かに工場は、高電圧の電気が必要だ。変電所が近くにあるほうがありがたいし、同等の電気施設を自前で用意にするにしても、発電所から伸びてくる高電圧ケーブルのそばがいい……」
「なにブツブツいってんだ。いくぞ、春樹」
ロウが、春樹の肩に手をおいて言った。
工場地帯の入り口……といっても、大層な門があるわけでもなかった。「関係者以外立ち入り禁止(何があっても自己責任! )」と書いてある看板が、正面の建物の壁にかかっているのみだ。その看板の横を抜けていくと、ひときわ明るい建てものがあった。
建てものの中から誰かが春樹たちを見ていた。ロウは気にせず前を通り過ぎようとしたけど、春樹たちはその誰かに呼び止められた。
「おい、そこで何をしている?」
春樹はあわててハンチング帽で顔を隠そうとした。ロウは前に進み出て、持ってきた電線ケーブルと電気工事用の工具を掲げてみせた。
「チャウの旦那に頼まれてるんだ。今夜中に工場の電気を修理してくれってな」
このあたりの建物で唯一灯りのついているその部屋は、守衛室だった。通りに面した扉は開きっぱなしで、タンクトップの男が、机の上に足を投げ出しながら新聞を読んでいるのが見えた。
「こんな夜遅くに業者が来るだなんて聞いていないぞ?」
男は、新聞を置いて、春樹たちのところまで歩いてきた。腹こそだらしなく出っ張っていたけれど、体格はかなりよかった。背も高く、二人を見下ろすには十分だ。
「チャウの旦那が言い忘れただけだろう」
ロウは応えた。
「どうだっていい。工場に部外者を入れるわけにはいかない」
「おいおい、こちとらこんな真夜中に出勤させられてトンボ帰りか?」
「知ったこっちゃねぇよ。さっさと帰るんだ」
「そりゃ、まぁ、俺たちは帰ったってかまわないけどな」
ロウは、春樹に目配せをしながら続けた。
「家でゆっくり休んでから、今夜のやりとりを親方連に報告すればいい。でも、チャウの旦那はどう思うだろうな? 朝になって機械が動かないとわかったら、きっと俺たちの家に乗り込んでくるだろうけどさ、そのあと、夜勤明けのあんたの所にまで来るかどうかは、あれだ……チャウのみぞ知るってやつだ」
「チャウか……」
守衛の男は、うなりながら頭をかいた。
「魚肉団子を作ってるあのおっさんのことか? 最近、その工場で、若い従業員が顔中血だらけにして搬送されたんだよな。チャウは、間抜けな若造が製造機で事故を起こしたと言っていたが、俺はあいつのシャツに斑点模様のシミがついているように見えた。もちろん洗った後だったからなんとも言えんが……」
「通っていいのか? だめなのか?」
「わかったよ。さっさと行け」
「どうも」
そう言うと、ロウは振り返って、工場地帯の奥へと進んでいった。春樹は、そのあとについていった。
「おどろいた。真正面からつっこんで、すんなり通れるだなんて」
「仕事熱心なやつは少ないからなぁ」
ロウは言った。
「俺の知り合いでまじめに働いているのは、春樹とヒトヒラ先生くらいのもんだ。さて、どっちに行けばいいのやら、だな」
「ここに来たことがあるんじゃないのか?」
「あるけどもう一年も前だ。その時だって親方について来ただけだからな。俺は、親方の仕事の手伝いをしていて、要は雑用として駆り出されたわけだ」
「そのときの現場が、変電所だったかもしれないんだね」
「現場は、確かに地下にあった。見たこともない大きな機械があって、唸り声のような音をたてていた。親方はその機械の定期点検か、修理をしていたはずだ」
「きっと変圧器だね」
「それから親方に念を押されたんだ。『この施設のことを部外者に教えるな』ってな。その時は気にしなかったけど、変な指示だよな? でも、今夜の春樹の話を聞いて、なんとなくその理由がわかったよ。ともかく、俺は今もその言いつけを忠実に守っているわけだ」
ロウは、四つの雑居ビルに挟まれた交差点の真ん中に立つと、右を見て、左を見て、もう一度右を見た。
「とりあえずまっすぐ進むか」
「先は長そうだね」
と、春樹は言った。
この場所のことを誰かに説明するとすれば、「黒い塔内の他の場所とさして変わらず」だった。つまり、無計画に建てられた雑居ビル群の隙間を、縫うように歩いていかなければならない場所なのだ。道には、ビニール袋やタバコの吸い殻が散乱し、建てものの側面を這う古びた排水管のせいで、水たまりがそこかしこにあった。春樹は、いつも通り、そういったゴミを避けながら歩いた。
開きっぱなしの扉や窓から覗き見る限り、どの工場も電気は消えていた。中には誰もいないようだ。床はビチャビチャのところが多く、製粉工場なんて、床のいたるところで粉が飛び散ったままだ。原材料を洗うためのプラスチックのたらい桶と、空っぽになったダンボールが平積みにされていた。せん断機、粉砕機、チャーシュー用の豚肉を突っ込むスチーマー……そういった機械が小さな食肉工場に詰め込まれていた。そして、それら全ての機械から肉や加工液のキツい匂いが漏れていた。ここで作られた団子や麺が自分の食卓にものぼっていることを思うと、これはあまり見たくなかった光景だった。
さんざんさまよった挙げ句に春樹たちが遂にたどり着いたのは、小さな建物だった。ビルの隙間に挟まれてぽつねんとあるそれは、ただの倉庫のように見えた。ここを訪れる目的がなければ、前を百回通ったところで、あることすら気づかないような建物だった。
「ここだ。間違いない」
ロウは言った。
「やっぱり鍵がかかっているのかな?」
と、春樹。
「そのはずだ。以前ここに来た時、鍵は親方が持っていた。窓からなら侵入できると思っていたけど、見込み違いだったな」
確かにその建物の正面部に窓はなかった。側面や裏側に回り込んで確認しようにも、隣の建物との隙間は十センチほどしかなく、とても通れたものじゃない。
「どうする?」
春樹はたずねた。
「出直すしかないな」
ロウが答えた。
「鍵を手に入れる方法を考えよう」
「そんな……ここまで来て引き返すだなんて。グズグズしている時間はないんだぞ?」
春樹は前に進み出て、入り口のドアノブをダメ元で回してみた。
「とはいえ、そうそう強行突破できるようなもんでもないだろう」
ロウは言った。
「もしかしたらあの守衛が鍵を持っているかもしれない。帰りに話しかけて探りを入れてみるか?」
「ロウ……」
春樹は言った。
「どうした?」
すでにもと来た道を戻り始めていたロウがふり返った。
「さっさと行くぞ」
「ロウ……」
もう一度春樹は言った。
「開いたよ」
「はい?」
「扉が開いたんだ。鍵はかかっていない……」
春樹は、その扉を押し開けて言った。中は真っ暗で、でも、暗いところに慣れている春樹の目には、地下へと続く階段が映っていた。
◇
「どうして開いていたんだろう……確かに鍵付きの扉だったのに」
春樹は、コンクリートの階段を降りながら、静かに言った。
「最後に来たやつが、鍵を締め忘れたんだ……」
春樹に続いて歩くロウもヒソヒソ声だった。
「きっとそうだ」
春樹は、懐中電灯で照らしながら慎重に進んでいった。建物の電灯スイッチは見つけたけれど、灯りは点けないほうがいいということで二人の意見は一致していた。
扉に鍵がかかっていなかった理由は、ロウの言うとおり、ただの「かけ忘れ」なのだろうか? 春樹は、なにやら腑に落ちなかった。あまりに都合がよく、まるで誰かの仕組んだ罠のような気がしていた。「引き返したほうがいいんじゃないか」と春樹が伝えると、ロウは、「そんな、ここまで来て引き返すだなんて……」と春樹のものまねをしながら背中を押した。
春樹たちは、広い地下室へとたどり着いた。地下室では、ブーン、ブーンと唸り声のような音が聞こえた。懐中電灯を照らすと、春樹たちの体よりも大きな金属の機械が、部屋の真ん中でいくつも並んでいる。騒音は、その機械から絶え間なく鳴っていた。
「配電用の変圧器だ。ここは間違いなく、変電所だよ」
春樹が変圧器と呼ぶ機械は、この暗闇にあって、キノコの塊のように見えた。その側面は、熱を空気中に逃がすため、波打つようなヒダ状の金属板で覆われていた。頭頂部からは、やはりキノコに見える突端がいくつも生えていて、そこから黒い電気ケーブルが伸びている。すでに何十年も稼働しているのだろうか、機械から油が漏れた跡があり、そこが茶色の錆のように変色していた。
天井の穴から極太の電気ケーブルが伸びていた。そのケーブルの一部は変圧器に繋がれ、それ以外のものは、床を這うように部屋の奥まで伸びていった。地下室は、ずっと先まで続いていた。
「ロウ、灯りをつけよう。もっとよく観察したい」
春樹は、変圧器をしげしげと眺めながら言った。
「ダメだ」
ロウが言った。
「見学に来たわけじゃないんだぞ? 見張りがいたら一発で見つかっちまう。奥のほうに行ってみよう。春樹の考えが正しければ、電気ケーブルはひとつ下の『二十一階の街』まで伸びているんだろう?」
春樹が変電設備に見とれてなかなかそこを離れようとしなかったので、ロウは春樹を引っ張るのにそれなりの筋力を要した。
「だって、あんなに古い設備は初めてだったんだ。芸術的なアンティークだよ」
「いいから行くぞ」
二人は、床を懐中電灯で照らしながら、電気ケーブルを辿って地下室を歩いていった。ところどころに「高電圧注意」という看板が、ケーブルを触った者の体が吹き飛ぶ絵とともに掲げられていた。春樹たちはその看板を見ながら、たまに通路を横切る電気ケーブルを跨いで歩きつづけた。
「前に来た時は、奥まで行ったのか?」
春樹はたずねた。
「いや。手前の変圧器を点検して、作業が終わったらそのまま帰った。そういえば、『奥には行くな』と親方に注意されたかもな」
やがて、通路の終わりが見えた。電気ケーブルは、そこで途切れていた。
「ケーブルが、なくなっちまったぞ?」
ロウが駆け寄って言った。
床には穴が開いていて、すべての電気ケーブルは、そこに飲み込まれていた。穴はケーブルでぎゅうぎゅう詰めの状態で、隙間からその下を覗き込もうにも、何も見ることができなかった。
「廊下はここで終わりだ。俺たちは、どこに行けばいいんだ?」
階段や、扉らしきものは見当たらなかった。
「ここじゃないか?」
春樹は、懐中電灯で足元を照らした。そこにはハッチがあった。
「開きそうか?」
ロウはたずねた。
「たぶん。鍵や錠はついていないからね」
ふたりしてハッチの蓋を引っ張って開けると、はしごがあった。はしごはずっと下まで続いていて、底は見えなかった。
「見つけたな」
と、ロウはニヤリと目配せをしてみせた。
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