見出し画像

月面ラジオ { 25: "宇宙(3)" }

あらすじ:(1) 30代のおばさんが、宇宙飛行士になった初恋の人を追いかけて月までストーカーに行きます。(2) 月美はついに宇宙にやってきました。

{ 第1章, 前回: 第24章 }

バターと砂糖の焼ける甘い匂い、ブーケだらけのあざやかな道、舞いあがるなめらかなドレス、いくつもの祝祭を濃縮したような喧騒……
ずっとこの場所で溶けていたい……
そんなショッピングモールの誘惑をふりきり、月美はやっと展望室へたどり着いた。

静かでびっくりした。
人影がまったくなかったのだ。

展望室にだれもいない? 
月食という一大事にこれはどういうことだ?

そう思った矢先、月美は窓ガラスに地球が写っていることに気がついた。
月ではない。
地球なのだ。

月美はペシっとオデコをたたいた。
どうやら反対側に来てしまったようだ。
なれない無重力空間を泳いでいるうちに、いつのまにか体が反転したのだろう。

展望室は暗く、だだっ広かった。
灯りを消したパーティー会場のような場所だ。
壁の一面は、バスケット・コートほどの一枚板のガラスだった。
そして、地球の青色がガラスを占めていた。

月美は窓まで泳いでいった。
高高度旅客機からさんざん見たけれど、改めて地球は迫力があった。
衛星軌道からでもわかる地形の隆起、気候によって異なる植生、濃青の海、雪の砂漠、雲、オーロラ、台風、異物のような人の都市、それに壮大な夕焼けだ。

「私はあそこで生まれたんだ。」

月美は地球を指さしながら言った。
泣きそうになってあわてて首をふった。
もう帰りたいと思っている自分が信じられなかった。

慣れ親しんだ家が恋しいわけではない。
明日が不安なのだ。
昨日と違う日がはじまる、それがこんなにも怖いだなんて。
ラグランジュなんかに来ないで、さっさと月まで行ってしまえばよかった。
ここには、まだ引き返すための道がある。
いま地球に降りてしまったら、もう宇宙には来られないのに。

「私は月を観にきたんだ! 明日から月で働くんだ!」

そう自分にいいきかせ、月美は元きた道を戻ろうとした。
その時、窓に人の顔が映っているのを見つけた。
驚いてふりむき、さらに上を向いた。

逆さ吊りの男がいた。
紐で天井にぶらさがったような体勢で、ボウフラよろしく宙を漂っている。
はじめからあそこにいたのだろうか? 
まったく気づかなかった。

若い男だ。
秋の麦のようにうすい褐色の肌……インド系だろうか? 
顔には、力強い黒の眉と短い髪の毛が乗っていた。
背は高いけれど、体の線は細く枝のようだ。
黒いセータとジャケットを着て、ジーンズのポケットに両手を突っ込んでいる。

青年は、直立の姿勢から微動だにせず地球を見つめていた。
一心不乱に地球を見つめるその様子が気になり、月美は目が離せなくなった。
青年が、他人の視線をとらえて離さない魅力を持ち合わせていたからだけじゃない。
その様子が、あまりにも思いつめていたからだ。
ここがビルの屋上だったら今にも飛び降りてしまいそうな、そんな気がしたのだ。

青年と目があった。
月美が見ていることに気づいたようだ。
やはり若い。
二十代後半くらいだろうか。
不思議な顔立ちだった。
「不思議な」という言葉以上の表現を月美はもちあわせてはいなかった。
しいて言えば子供を無理やり大人に成長させたようなそんな面持ちをしていた。

「月を見に行かないのか? 今夜は月食だ。」

月美は言った。
なんでもいいから話しかけなくちゃ……
そんな気がしたからだ。

「見えなくなるものを見て何がおもしろいんだい?」

その声が想像よりも幼くて、月美は驚いた。
まるで子どものような話し方だった。

「月なんて退屈なだけさ。ここに比べればね。だれもいない場所で見る地球はなによりもきれいだ。」
 まもなくして青年は月美がいたことを思い出したようだ。
「この貴重な時間を分かち合える人がいてくれてうれしいよ。」

「じつは場所をまちがえただけなんだ。」
 月美は正直に言った。
「ほんとうは月を見に来たんだ。」

「ならそっちに行ってしまうのかい?」
 青年は寂しそうにうなだれた。

ほんとうに子どもみたいだと月美は思った。

「いや……やっぱここにいるよ。たしかに地球はきれいだ。このまま引っ張られて落ちてしまいそうだ。」

青年は、天井をタンと軽い調子で蹴った。
頭をこちらに向けたまままっすぐ泳いでくる。

青年は途中で体をまるめ、その勢いで体の上下を逆転させ、床に着地した。
その動作があまりにも速かったので、月美はおどろいてしまった。
まるで、メダカが方向転換をするかのようだった。

「ほら見て。」
 青年は月美のとなりに立った。
「ウェールズが見えてきた。あそこには赤い竜が住んでいるんだ。」

「竜?」
 月美はおどろき首をかしげた。

「知らないのかい?」
 青年もおどろいた様子だった。

「見たことない……かな。」

「僕も見たことはないけど有名な話だよ。他にもワイバーンとか竜には色々な種類があるんだ。」

「へぇ……」

しまった、と月美は思った。
話が合いそうにない。
まさか宇宙で幻想生物の話題になるとは思わなかった。
それに彼が指さしている先はウェールズのあるブリテン島でなく、スリランカのような気がする。
今はヨーロッパ大陸の端っこすら見えない。

「宇宙に慣れてるんだな。」
 月美は話題を変えることにした。
 スリランカに赤竜がいる話を盛り上げる自信はなかった。
「ラグランジュには何回もきているのか?」

「今日で五回目かな。この展望室には必ず来るんだ。」

「地球を見るのが好きなのか?」

「うん。天井に立って南半球を上にして見るのが僕の中で流行中なんだ。地球はいつ見ても素敵だ。いつか世界中をくまなく旅してみたいな。」

「宇宙に五回も来ているのに世界一周の方が珍しいのか?」

「もちろん。地球はずっと未知の大陸だよ。宇宙に城を建て、月を庭にした今でも、地球のほうがずっと広いんだ。あ、みてごらん。アマドン川だよ。」

「アマ?」

「アマドン川。世界一大きな川さ。知らないのかい、月美?」

「それを言うならアマゾン川だし、あれは万里の長城だ。」

「ああ、うん……」
 青年は眉をひそめた。
「そう言おうと思ってたんだ。目がいいんだね。」

「自慢の視力だよ。ところで私の名前を教えたか?」

「おっとっとっ……」
 青年は気まずそうにしながら頭をかいた。
「口が滑ったかな?」

「あんた、誰なんだ?」
 月美はたずねた。

「そろそろ自己紹介をしなくちゃね。」
 青年はピンと背筋を伸ばし胸を張った。
「アルジャーノンだ。月に住んでいる。」

アルジャーノンは、ジャケットの内側から封筒を取り出した。

「チケットなんて形式に過ぎないけど、どうしても自分の手で渡したくってね。」

褐色の手から渡されたのは、飾り気のない封筒だった。
中には航空券が入っていた。
そこには月が描かれ、各国の文字がびっしりと詰めこまれていた。
月行きのチケットだ。

もちろん生体認証にさえ同意すれば、今日日チケットなしでも船には乗れる。
古いくさい紙のチケットだなんて、せいぜい記念や儀礼の意味しかない。
けれどそれを手渡ししてくれるということは、この青年が月美に何かしらの期待を寄せているということでもある。

「あんたが私を月に呼んだのか?」
 月美はチケットを眺めて言った。

「そのとおり。」

「あんたは私の同僚? それとも上司?」

「その両方であり、どちらでもない。僕は友人や仲間という言葉のほうが好きだね。君の関わるプロジェクトの責任者であるのは確かだよ。」

アルジャーノンが骨ばった長い手を差し伸べながら言った。
月美は握手に応えながら尋ねた。

「若いのにすごいんだな。どうして私を雇ってくれたんだ?」

「磁場コントロールシステムの応用工学に精通している人を探していたら月美を推薦されたんだ。月美をよく知る人からからね。」

「だれだ?」

「月美もよく知っている人さ。」

「だから誰なんだ?」
 月美は少し焦っていた。
「どうして私なんだ? 私はいったい何をすればいい?」

「仕事の話はいいじゃないか。月までくれば全部わかるんだ。」
 アルジャーノンは迫る月美を押しとどめた。
「そんなにあわてていったいどうしたんだい?」

月美は窓の外を見つめた。

「不安なんだ。月ではあんたみたいな若いのが最前線で活躍してるんだろ? 私なんかが今さらなんの役に立つのかって。」

「不安なのはよくわかるよ。」
 アルジャーノンも窓の外を見つめた。
 ガラスにふたりのうすい顔が映った。
「僕もできることよりできないことのほうがずっと多い。だから他の人の力を借りたいと思っている。月美の力が必要なんだ。」

「そうか……」
 月美は言った。
「そう言ってもらえると元気が出るよ。ありがとう。」

「それはよかった。」
 アルジャーノンは笑ってうなずいた。
「よければこれから食事でもどうだい? 月を見上げながらさ。今夜は月食なんだ。」

「月は見ないんじゃなかったのか?」

「見ないとは言ってないさ。それに、この展望室にはレストランもカフェもないんだ。」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?