{ 45: 一日楽医院 }
階下のフロアへ移動するのは、「黒い塔」からの脱出を試みる春樹にとって悲願の第一歩だった。でも、その感慨にふけっている時間はどこにもなかった。
ドンドンドンドン! どんどん! 春樹は、深夜にもかまわず「一日楽医院」の扉を力いっぱい叩いた。
「二十一階の街」の病院も、二十二階と同じように大通りに面していた。病院の正面に大きな看板が掲げてあったので、大階段を降りて間もなくここを見つけることができた。春樹はそんな奇跡に感謝しながら、一日楽医院の扉を壊すつもりで、引き続き叩きつづけた。なのに、ヒトヒラ先生が出てくる気配はかけらも感じられなかった。
「助けて下さい! 僕の友だちが病気なんです」
ドンドンと殴るたびに、「もしかしたら先生はここにいないのでは……」という不安が増していった。ロウの話だと、ヒトヒラ先生は病院に寝泊まりしているはずだった。大騒ぎしている春樹に気づかず先生は寝入っているだけなのか、それともここ以外の場所にいるのか、それを確かめる方法はない。
「どうしよう……」
先生と会わないまま帰るわけにいかなかった。こうなったら手段を選んでいられない。入り口を壊してでも、院内に先生がいるのか確かめなくては……あとでどんな目に遭おうとかまわなかった。春樹は、コンクリートブロックを近所から拾ってくると(黒い塔は、どこに行ってもビルの建築現場とその解体現場があり、この手の道具を揃えるのに不便はない)、ガラスの扉の前に立って、両手でそのブロックを掲げた。
そのときヒトヒラ医院の扉が開いた。
◇
中から出てきたのは、髪が長く、背の高い男だった。男は、掲げられたコンクリート・ブロックと春樹の姿とを交互に見て、唖然とした。
いっぽうで春樹もそれ以上動けないで、相手を見ていた。想像したよりもずっと若い男で、驚いてしまった。二十代半ばから、せいぜい三十代前半といったところか。うすい色の長い髪を後ろに束ね、顔には大きなマスクをしていた。ただ、春樹が男に対して何も言えないでいるのは、彼が血のついたエプロンをしているからだった。ひとむかし前の春樹だったら、卒倒していたことだろう。
春樹の背後でゴトッという音が鳴った。扉を破壊するために掲げていたコンクリートブロックが地面に落ちた音だった。
「火葬屋を呼んだおぼえはない」
男は冷たく言った。
「あなたたちに引き渡すべき死体はここにないぞ」
春樹は、あわててローブを脱ぎ去った。
「あ、あの……ヒトヒラ先生で……ですか?」
やっと絞り出した春樹の声は、こわばっていた。
「そうだ、私がヒトヒラだ。今さら自己紹介をする必要はないはず……だが……ん?」
男はあからさまに驚いた様子で、塔の住民特有のその赤い目を見開いた。
「まさか人間の子か! どうして火葬屋の格好などしている?」
「こ、これにはワケがあって……」
「すまないな、今は手術中なんだ」
ヒトヒラ先生は言った。
「急ぎでないなら、出直してくれないか?」
夜中に医者を尋ねて、急ぎの用じゃないわけがない。でも手術中だと言われると、どうしていいのかわからなかった。
「返事をしてくれるとありがたいんだがな」
春樹が何も言えないでいると、ヒトヒラ先生が言った。
「僕は、二十二階の街から来ました」
春樹は言った。
「友人が病気なんです。ベッドでうなされて、汗もたくさん出て……」
「今すぐ私が行かなければ、死んでしまう状況なのか?」
「いえ、そういうわけじゃ……」
「なら出直すんだ」
ヒトヒラ先生は言った。
「二十二階であれば、ちょうど明日が開業日だ。朝になったら、患者を連れてきてくれればいい。ここのところ夜遅くまで作業をしていて、私にも休みが必要だ。さもなければ、明日の診察に差し支える。君も早く帰りなさい」
そういうと、男は院内に入った。
「無理をいって申し訳ありません」
春樹は、あわてて食い下がった。
「でも、ロウがあなたを呼んでいるんです」
「ロウ? 電気工のロウのことかな?」
「はい」
春樹はうなずいた。
「ロウが、その……なんて言ったらいいのか……夢を見ていて……すごくうなされているんです。尋常じゃないくらいに……」
こんなことを話していいのか、春樹にはわからなかった。夢でうなされたくらいで医者を呼びつけるな……そんなふうに怒鳴られたって仕方のないことだった。でも、扉を閉めようとしていたヒトヒラ先生の手がふいに止まった。
「夢……いったいどんな夢だ?」
先生が食い気味で乗り出してきたので、むしろ春樹の方が面食らってしまった。それでも、そのまま扉を閉ざされるより遥かにマシなので、春樹は気を持ち直して答えた。
「火で焼かれる夢です」
しばらく先生は黙っていた。どうして先生が急に考え込み始めたのか春樹にはわからず、ことの成り行きを待つ他なかった。
「名前を聞いていなかったね?」
やがてヒトヒラ先生は口を開いた。
「春樹です」
春樹は言った。
「シャン春樹といいます」
「春樹君、悪夢にうなされるのは病気じゃないよ」
ヒトヒラ先生は言った。
「でも緊急事態ではあるようだ……行こう」
「ほんとうですか?」
春樹は思わず飛び跳ねそうになった。
「でも今は手術をしているんじゃ……」
「ちょうど手術を終えて、片付けをしているところだったんだ」
先生は、春樹のために扉を押し開けて言った。
「急いで往診の準備をするから、君は中に入って待っていてくれ」
「ありがとうございます。でも、ここで待っています」
「中に入っていてほしいんだ。夜中ともなると、街中でも物騒な事件が起こるからね。それに、火葬屋がいるのを見られると、あらぬ疑いがかけられるんだ。ヒトヒラ医院で、誰かが死んだんじゃないかってね」
ヒトヒラ先生は微笑みながら言った。
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