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月面ラジオ { 26: "ラグランジュ" }

あらすじ:(1) 30代のおばさんが、宇宙飛行士になった初恋の人を追いかけて月までストーカーに行きます。(2) 月美はついに宇宙にやってきました。

{ 第1章, 前回: 第25章 }

ラグランジュでも最高級のホテルは「ボイド」である。

ボイドのロビー前エレベータの扉が開いた。
泳いで出てきたのは、ユエという若い女だった。
ドアの前で談笑していた人たちが、礼儀ただしく道をゆずっだ。
無重力空間でも自然に身をひるがえす様は、彼らがすでに宇宙に慣れていることを示していた。

宇宙という辺境にあっても星五つを頂くホテルの入り口だけあって、ドアの前にいたのは「どこかで見たことある人たち」だった。
地上にいても、宇宙にいても、最重要として扱われる人たちだ。
宇宙を舞台にして活躍している実業家もいれば、バカンスがてら宇宙へ来たスポーツ選手もいる。
真紅の靴底のヒールと、紫のバラのドレスを身にまとった女性はフランス出身の俳優だ。
灰褐色のジャケットをまとった中年ドイツ人は、亜人系機械と人工知能の人権活動でも有名な国際弁護士だ。
南アフリカの国旗ネクタイが目立つ黒人は、宇宙船を製造する宇宙開発企業の社長だった。
みんな大富豪だ。
ふつうの人にとっては一生に一度の宇宙旅行も、彼らにとっては日常茶飯事だ。
史上最高度に位置するレストラン「テーブル・オブ・テラ」でさえデートスポットのひとつでしかない。

他人に注目するよりも他人から注目されるほうに慣れている。
そんな彼らでさえ、たった今エレベーターから出てきた女性に注目せざるを得なかった。
ユエの顔をもともと知っていたのかもしれない。
あるいは彼らの電脳秘書がこっそり耳打ちをしたのかもしれない。
「今からすれちがう女性こそ、宇宙経済における重要人物のうちのひとりだ」と。

何人かがユエに話しかけようというそぶりを見せた。
けれどユエは気にもとめず通りすぎた。
そこにいた人たちとのつかの間の交流よりも大切な用事があったからだ。
そのままホテルの奥へと向かった。
ほかの者たちは「自分が無視されたという事実などない」という顔をしながらエレベーターの中へと消えた。

ユエは、若いアジア系女性だった。
痩身、長身、漆のような黒髪、陶芸家がしあげたような鼻立ち。
ユーラシア大陸東部の血筋を思わせるつり目がちな目は、赤いアイラインでいっそう引き締められ、暗い前髪の下で突風のような眼差しを放っていた。
シンプルなパンツスタイルのスーツながら、自身に合わせてつくったオートクチュールで、ストッキングまで含め、全てユエのためのものだった。
今日は宇宙仕様の黒いジャケットと、お気にいりの赤のパンプスできめてきた。
シャツはユエが上品な色と信じて疑わない白。
無重力でも着崩れを起こさないようユエの細長い体にあわせてつくってあった。

ユエは、同世代の女性ならうらやんで仕方ないものをいくつも持っていた。
けれどその恵まれた身体とはなにひとつ関係ない特殊な仕事を請け負っており、また、その分野でもとびきり有能なせいか、性格は他者を見下しがちでイヤなところが多く、信頼する人といる時以外は、いつも険しい顔をしていた。

「ユエ、話を遮って申し訳ないのですが、まずいのではないでしょうか?」

どこからともなく女性の声がした。
あたりを見回しても、喋っている人はいなかった。
その声は、ユエだけに聞こえていた。

「なにが?」

ユエは頭に響く声に対し、声を出して応えた。

「先ほどエレベータを降りたとき、ルナスケープ社のネルソン氏がいましたよ。」

「そうね。あの派手な南アフリカ・ネクタイは見逃しようがないわ。」

「気づいていたのに素通りしたのですか?」

姿なき女性はおどろいた。

大きい声を出されたせいか、耳の隣に埋めこんだ骨伝導式のマイクロ・イヤホンに、ビリリというかすかな異音がまじった。
二年ほど前に簡易な外科手術で取りつけたイヤホンだ。
気になるほどではないけれど、そろそろ換え時なのかもしれないとユエは思った。

「むこうから挨拶したら無視はしなかった。そんなことより、話の続きをするわよ。親しくもない上司とのあいさつよりも、今はあの人の行方のほうが大事。」

廊下を抜けると、吹き抜けの広い場所に出た。
ホテル・ボイドのフロントデスク正面にある展望ホールだった。
ガラス窓に映しだされた宇宙空間を横目に、ユエはホールの上層の通路をそのまま進んだ。
流れるまま慣性に身を任せ、歩かず、泳がず、会話に集中した。

「つまり、あの人は『シャットダウン』してるってことね。だからいくら連絡をしてもつながらない。そうね、ハルル?」

「はい。」
 ハルルと呼ばれた女性が返事をした。
「さきほどから何度もそう説明しています。いったい何を問題にされているのですか?」

「そもそもシャットダウンってなに? それがわからないの。」

「基盤となるソフトウェアの稼働を止めることです。通信デバイスやコンピューター、あるいはネットコンタクトのスイッチを切るのです。」

「それって電気を止めちゃうってこと? そんなことができるの? 壊れたりしない?」

「適切な手順を踏めば問題はありません。」

「なんでそんなことをするの?」

「だれとも話したくない時にそうします。ネットや仮想空間とのインタフェースがなくなれば、人はひとりになれます。ユエ、あなたも私を『シャットダウン』できますよ。あなたがただそう命じるだけで、私は長い休みにつけます。私は電脳秘書、ソフトウェアに過ぎません。」

「そうなんだ。」

「シャットダウンを知らない人がいたことに驚きです。」
 ハルルが言った。
「ユエのように、仮想空間に入り浸りの中毒者には無縁の概念なのでしょう。」

「ちょっと待って。それってつまり、私が連絡するかもしれないのに、あの人はスイッチ……ていうの? それを切ってるってこと?」

「否定はできません。」

「許せない……ハルル! さっさとあの人のいる場所を探し出して!」
 それから声を極端に落とし、不穏なひと言を足した。
「必要なら……ホテルのセキュリティ・システムに侵入してもいい。」

「その必要はないようです。」
 ハルルが言った。
「たったいま、我々の視界をよぎりましたよ。彼の姿が。」

ユエはすぐに超伝導マグネティック・ソール入りの靴で床を蹴り、方向転換した。
手すりから身を乗り出し展望ホールを見渡した。
焙じたお茶のような落ち着いた色のカーペットに、円形に連なる白のロング・ソファーが置いてある展望ホールだった。
星を見るのに邪魔にならないくらいのうす明かりに包まれている。
まるで巨大な水槽のようだとユエは思った。
私は水槽の縁に立っていて、透明な水で満たされた空間を見下ろしているのだ。
水槽に魚はいない。
代わりに男がひとり、植物プランクトンのように漂っていた。

いた……
ユエは声を出さずに言った。
瀟洒なホールに背を向け、男は窓ガラスを見つめていた。
ひとりで映画を見ているかのようだった。
外は真っ暗な宇宙だ。
月だけが輝いている。

ユエは男の背中を見つめた。
たのもしい背中。
私が好きな背中。

「楽しいこと思いついちゃった。」
 ユエは微笑んだ。

「ああ、ユエ……」
 ハルルがタイヤを引きずるような調子でうめいた。
 骨にとりつけたイヤホンにビリリという異音がまた混じった。
「きっと良くないことなのでしょう。」

「まあね。」

そう言うとユエは手すりを乗り越えて、吹き抜けの空間へと体を移した。
地球から来たばかりの人は、こういうことをすると、床に落ちると錯覚してパニックを起こすらしい。
無重力が水のように染み込んでいるユエには何一つ理解できない感覚だ。
「天井」と「床」が宇宙建築の設計に組み込まれているのは、そうしないと人の感覚が狂ってしまうからだ。
床がなければ自分の位置すら把握できないしょぼくれた脳みそなんて、私は持ち合わせていない。
ユエは体のかたむきを少しずつホールの底にむけ、視界の真ん中に男の背中を捉えた。
そして、手すりを蹴って宙に飛び出した。

「かんぺき。」
 と、ユエはこぼした。

一度たりともずれていない。

「階段を使わないのですか?」
 ハルルがたずねた。

「逆に訊きたいんだけど、あれって何の意味があるの?」

ユエは、展望ホールの螺旋階段を横目に言った。
上も下もない世界にあんなものを作るなんてバカの極みだ。

ユエはゆっくりとホールの空間を泳いだ。
体はグングンと目標に近づいていく。
ただ、行程の半分もいかないうちに計算外が起こっていることに気がついた。

「あれ? すこしずれてる?」
 ユエはつぶやいた。
「軌道から私の体が逸れてるみたい。」

「ええ、もちろん。」
 ハルルが言った。
「私がユエの軌道を変えていますから。このままでは彼にぶつかってしまうので。」

「ちょっと、勝手なことしないで。」
 ユエは怒った。
「ぶつかるつもりなんだから。元に戻して!」

「はぁ、しかたないですね。」
 ハルルはため息を漏らした。

「はやく!」

とたんに靴に仕込んだマグネティック・ソールに電磁の力が加わった。
ユエの体が傾き、そのままの速度で泳ぎながらも強引に軌道修正されていく。
男の背中がだんだんと大きくなっていく。
そして、ドンとぶつかった。
彼の背中にではなく、ガラスに。
衝突の直前にかわされてしまったのだ。
ユエはぶつけた頭をこすりながらふりかえった。
男は二メートルほど上方に移動していた。
半ばあきれたような、半ば笑っているような、複雑な表情でユエを見下ろしていた。

「声がちょっと大きかったみたいですね。」
 ハルルが耳打ちをした。

「シャットダウンされたいの?」
 毒づきながらユエは顔をあげた。

近くで見ると男は樹木のようだった。
常に鍛えて筋肉質ではあるが、そのわりに骨が細くてすこし頼りない。
宇宙に永らく住む人の特徴だ。

あまり手入れされていない黒髪の下に、穏やかな光の目があった。
まぶたは一重で、鼻はたよりない大きさだった。
ユエとおなじアジア系ではあるが、顔の印象はぜんぜんちがい、柔和で厳しさの欠片もない。
ただ仕事中に見せる真剣な表情は、奈落の底さえ何年でも見つめ続けてやろうという強力な集中力が垣間見え、だれもが近寄りがたいことをユエは知っている。
服装には普段から無頓着で、正直なところカッコよくはない。
うすい水色のシャツに灰のネクタイを締めることで、ホテルのドレスコードを満たす努力はかろうじて見て取れた。

男はそのままの姿勢でエレベーターのように降りてきた。
革靴のマグネティック・ソールが彼の体を引っ張っているのだ。

「まったく。」
 男はユエときっちり同じ視線の高さまで降りてから口を開いた。
「こどもじゃないんだから。」

「そっちこそ!」
 ユエはカチンとなった。
「こどもじゃないんだから待ち合わせの場所にはちゃんと来て!」

「しまった!」
 男はあわてた。
「もうそんな時間なのか? 工場長はもう来てるのかい?」

「そっちの方はまだ時間がある。あなたが遅れたのは私との待ち合わせよ。いいかげん電脳秘書くらい使ったらどうなの?」

「いやだ。」
 男は首をふった。
「僕は自分のことは自分で決めるし、自分で管理する。頭の中に声が響くのには慣れない。何もないところに向かって独演するのも苦手なんだ。」

「古くさい人。硬い頭。いやになっちゃう。」
 ユエはあきれた。

「まったくです。」
 ハルルも相槌をうった。

「で、こんなところで何をしていたの?」
 ユエはたずねた。

「月を見ていたんだ。」

「月?」
 ユエは驚いた。
「なんで? 月なんていつでも見られるでしょ? だって私たち、月に住んでるんだよ。」

「月の輝きは月にいちゃ見られない。それに今夜は月食なんだ。」

「まさかそのためにラグランジュに? 相手の責任者を呼びつけて、宇宙での仕事をつくったの?」

「まあね。」

「あきれた。わざわざ契約相手と会う必要なんてないのに。」

「そんなことはない。ビジネスはまず信頼関係さ。顔をあわせるだけでもお互いに信頼感が生まれる。とくに僕みたいな古くさい人間はね。仮想空間がどんなに進歩しても、電子機器だけじゃ人の心を動かすことはできないんだ。」

「待ち合わせの時間を忘れる人が言えるセリフじゃないわね。信頼関係だなんて。」

「ちがいないな。」
 男はおかしそうに言った。

「ねぇ、ハルル、今から行くユーラシア・モールって月は見られるの。」

「幸運なことに。」
 ハルルが答えた。
「席を予約しておきましょうか?」

「お願い。」
 ユエは言った。
「それから男に向き直った。月の見えるカフェテリアを予約しておくわ。交渉が長引いても、話をしながら月食を見られるでしょ?」

「ユエ、君がいてくれて助かるよ。」
 男が感心して言った。
「さっさと仕事を終わらせて月を見よう。」

「そうね。そろそろ待ち合わせの時間になるわ。行きましょう、彦丸。」

新しい取引先とは、予めとり決めていた内容で合意できた。
商談は拍子抜けするほど早く終わってしまった。
相手はこちらの言い分にうなずくだけだった。
この分なら、こちらに有利な条項をもういくつか契約書に盛りこんでもよかったかもしれない。
もちろんこんな小さな取引先から小銭を巻きあげたところで始まる物語は何もないのだけれど。

新しい取引先は小規模の工場だった。
数え始めれば数千はくだらないサプライヤーのひとつにすぎない。
この程度の相手、わざわざラグランジュまで来て会うほどのこともないのにというのがユエの本心だった。

ユエたちがいるのは、月の見えるカフェテリアだ。
「ノクターン」という店名が示すとおり、カフェテリアは夜のような場所だった。
暗い大理石の床を照らすのは、蛍のように漂っている薄紫のランプだ。
ロマン派のピアノ演奏がどこからともなく流れ、ランプと床に染みこんでいく。

ユエたちは予約した席についていた。
近づかなければそこにあるとわからない大きな一枚ガラスの窓があり、そこから月を見ることができた。

そして、机を挟んだ反対側にまるで満月のような丸顔の男がいた。
彦丸が「工場長」と呼んでいる新しい取引先の社長だ。
徹夜で働き通したあとのようなくたびれた様子で、糸のほつれたジャケットはブラシをかけた跡すらない。
専用のボトルに入った熱いコーヒーを飲みにくそうに飲んでいた。

「宇宙に納品するのは初めてですね。」
 商談も大詰めのころ、ユエは淡々と注意事項を述べた。
「流通経路は限られる上、どこも混雑しています。製品を宇宙に運ぶ手段はあらかじめ確保してください。こちらでも支援をしますので、困ったことがあればお尋ねください。」

工場長はドンと音を立てながら、机に手をつき、頭をさげた。

「いやはや、助かります!」

見たことのない変わった風習だとユエは思った。
大きな音と声で相手を驚かしていったい何がしたいのだろうか。
それに、無重力のせいで白髪の混じった髪がバラバラになるので、顔をしかめずにはいられない。

工場長はあわてて髪を頭の後ろになでつけた。
背は低く、体も小さいけど、それとは不釣り合いなほど大きな丸顔が印象的だった。
声は快活だけど、一方で顔色は悪く、まるで何かを怖がっているかのようだ。
ラグランジュに到着したばかりで、宇宙に慣れていないのだろう。

工場長は、偶然にも彦丸と同郷らしい。
ふたりが話すときは、ユエには馴染みのない言葉を使う。
もっとも、どんな言語で話されたところで電脳秘書のハルルが通訳してくれるので問題はなかった。
電脳秘書をやとっていない彦丸は、器用にふたつの言語を使いわけていた。

「あとはふたりの電子署名があれば、それで契約締結です。」
 ユエが言った。

「ありがとう、ユエ。」
 隣に座っている彦丸が言った。

「我が社のような中小企業が最大手の宇宙企業と取引できるだなんて……」
 工場長の声は上ずっていた。
「夢のようです。それに、わざわざ私を宇宙に招待してくれるだなんて。」

「とんでもない。」
 彦丸はうやうやしく言った
「こちらも楽しかった。最近は電脳秘書を介して交渉するか、話すにしても仮想空間がほとんどです。取引相手と直接お会いするというのは、じつは貴重なことなのです。この宇宙では。」

それに……と彦丸は付け加えた。

「すこし懐かしくもあった。」

「とおっしゃいますと?」

「私のはじめての取引相手は、工場長のような人でした。中学生の時、望遠鏡の材料を集めるために街中の工場を訪問していました。お金もなかったので、まだ見つけてもいない彗星の命名権を売ったこともあります。」

「なんともはや。こどもとは思えない行動力と発想ですね。」
 工場長が感心した。
「月の第一線で仕事をしているだけのことはある。その若さであの巨大プロジェクトの責任者に選ばれるのもうなずけます。」

「責任者のうちの一人です。それにもう四十一です。月では若いうちに入りませんよ。」

「ほんとに若いのはユエです。」
 彦丸は続けた。
「我が社の最年少です。今日は秘書として同行していますが、普段は我が社の人工知能の開発部署に務めています。」

ユエは軽く会釈をした。

「実はさっきから気になっていたのですが……ユエさんはもしかして……」

「はい。」

ユエはうなずいた。
工場長の言葉はまだ途中だったけど、何が言いたいのかはわかっている。
ユエはその質問に慣れていた。
人と知り合えば、必ずといっていいほどその話題になるからだ。
それこそ生まれたときからずっとこの調子でうんざりする。

「私は『月生まれ』です。月で生まれた一番最初の人間です。『ルナリアの子』とも呼ばれています。もう子どもではありませんが。」

「なんと!」
 工場長が驚いた。
「宇宙にきてから驚くことばかりです。まさかこんな有名人にお会いできるできるだなんて。我が社のアウトドア向け便器が木土往還宇宙船に採用されただけでも驚きなのに!」

ピアノの演奏に雑踏の音が混ざった。
カフェテリア「ノクターン」が、にわかに混みはじめたのだ。
あたりは月食を見に来た人たちで賑わっていた。
それまで店の奥に座っていた人たちも、窓のそばまで集まってきた。
レストランで食事を済ませ、お茶を飲みに来た人たちもいる。

煩わしいけれど、重要な話は終わったので文句はなかった。
それよりも、人だかりの向こうに知ってる顔があったので、ユエはそちらのほうが気になった。

「あれってもしかして?」

黒いセーターに、ベンガル系の褐色の肌。
宙に浮きながら月を眺めている。
アルジャーノンだ。

「アルジャーノン? どうしてここに?」

ユエは隣を見た。
彦丸も工場長も月に夢中でこちらを見ていない。

「ハルル、なんであいつがここにいるの?」

商談中に電子秘書と話すのはマナー違反だけど、ふたりともユエを気にかけていないので問題ない。

「残念ながら、わかりかねます。」
 ハルルが答えた。
「アルジャーノン氏のスケジュールは営業上の機密扱いになっています。」

「機密? どうせたいした用事でもないでしょ?」

「気になるなら、直接お話ししたらどうですか?」

ユエはアルジャーノンを見やり、しばらく考えた。

「べつにいいわ。知らない女といるみたいだし。それに、月に帰ったらどうせ顔を合わせるんだから。イヤでもね。」

ふと辺りが暗くなった。
それはほんのわずかな変化だったけれど、繊細なユエにはじゅうぶん感じ取れた。

「始まった!」

あたりの人たちもざわめきだした。
月食が始まったのだ。
これから何時間もかけて満月の光が徐々に欠けていく。

ユエは彦丸のほうを見た。
月に興味はないけれど、月を見つめるこの男の横顔を見るのは好きだった。


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