{ 42: 路地、再び(2) }
春樹とロウは、連れ立って表通りに出た。春樹は、左手首を反対の手でつかみながら、早足で歩くロウについていった。春樹の左手の血は止まらず、ズキズキと鼓動に合わせて痛みが走った。すれ違う街の住民たちは、春樹の血だらけの手に目を見開いていた。
たしかにロウの言うとおりだ。さっさと手当をしなければ、まずいことになりそうだ。今ばかりはニショウと名刺のことを忘れて、傷の治療に専念したほうがいい。
「待ってくれロウ。確認しておきたいことがある」
「まだ、何かあるのか?」
ロウがあきれながらふり向いた。
「ニショウたちの話を聞きたいわけじゃない」
「じゃぁ、なんだ?」
「病院だよ。この街に病院はないのか? 傷口が思ったより深いから、ちゃんと治療を受けたいんだ」
「病院ならあるよ。すぐ後ろにな」
ロウが顎でしゃくると、春樹はふりむいた。
この街では珍しく、たった三階建ての小さな建ものだった。上の階ではベランダがせり出していて、壁はどこもかしこもツタ植物の葉でおおわれている。塔の中に太陽の光が届かないことを思えば、緑がおいしげっているのは、良く手入れしているからなのだろう。
建物は、春樹がさっきまでゴミ漁りをしていたのと同じものだった。建物裏の通りから正面玄関まで回ってきたわけだ。入口には看板がかかっていて、そこにこう書いてあった。
入り口は、錠がかかって閉ざされていた。窓から中をのぞいてみたけれど、診療所の廊下は真っ暗だった。
「閉まっているのか?」
春樹はたずねた。
「運が悪かったな」
ロウは答えた。
「今日は、診療日じゃない。お医者の先生は、他の階の街に出払っている」
「冗談だろ? 病院に医者がいないなんてことがあるのかい?」
「しかたがないのさ。正規の医者が少ないせいで、先生はどの街でもひっぱりダコなんだ」
「正規の医者?」
なんだか含みのある言い方だと春樹は思った。
「正規の医療免許を持った医者ってことさ。今日は木曜日だから、この病院の先生は、ひとつ下の階の街で診察をしているはずだ。治療なら他にも医者がいるから安心しろ。といっても闇医者だけどな。ここの街の住民は、病気になったら闇医者のところに行くことが多いな。よっぽどひどい病気じゃない限り、先生に診てもらうことはない」
「あの看板は、なんて読むんだい?」
春樹は、病院の看板をさして尋ねた。
「ヒトヒラだ。ヒトヒラ先生が診療してくれるから、『ヒトヒラ医院』っていうんだ」
ロウは答えた。
「とてもいい先生だ。貧乏な俺でも相手にしてくれるし、闇医者とちがって治療費をぼったくらない……ん? おい、どうした春樹。急に顔色が悪くなったぞ。ここでいきなり倒れたりしないよな?」
「ここだ……」
「何が?」
ロウは、キョトンとした。
「あの名刺に書いてあった場所は、ここなんだ」
春樹は言った。
「ぜんぶ思い出したよ。イサミという人の教えてくれた場所は、この病院だ。『ヒトヒラ先生にたよれ』って、あの人は言っていた」
◇
その日の夜、春樹とロウは、ふたり並んでベッドに腰掛けてうどんを啜っていた。
あのあとロウだけが工事現場に戻り、仕事をひとりで終わらせてきたものだから、夜もすっかり遅くなっていた。空きっ腹のロウは、春樹の茹でた大盛りのうどんを十口くらいでかっこんで、あっという間に平らげてしまった。いっぽう春樹は、包帯をまいた左手のおかげでうまく食べられず、麺がほとんど丼に残ったままだ。もっとも、春樹の食が遅い理由は、ロウに矢継ぎ早に質問をしたせいでもあった。
ヒトヒラ先生とはいったい何者なのか? どんな顔をしているのか? ほんとうに親切なのか? どうしてイサミなる人物は「先生に頼れ」と僕に助言してくれたのか? 病院に行くときは手土産を持っていったほうがいいのか、などなど……
「いい加減にしてくれ、春樹。もう疲れちまったよ」
ロウは、空っぽになった丼を床に置いて言った。
「明日になれば、ヒトヒラ先生はこの街にやってくるんだ。いいか? 今夜じゃなくて、明日だ。明日になったら、診療時間の合間にふたりで会いに行こう。今から病院をたずねて、先生が到着するのを入り口の前で待っている必要はどこにもないんだ。いいな?」
「だけど……」
「いいな?」
なおも食らいつく春樹をロウはにらんで制した。
「イサミという探索者が先生をお前に紹介した理由は俺にもわからん。何度きかれたって、答えは同じだ。明日、先生に会って聞いてみればいいなじゃないか?」
そう言うと、ロウはそのままベッドの上に転がった。
「今日は、もうダメだ。夜遅くまで仕事をしたからな。それも、『さっさと電気を使えるようにしろ』とアパートの住民に文句を言われながらだ。まったく! 火事になったのは、俺のせいじゃないってのに……うんざりだ……だから、春樹……もう寝させておくれ……」
春樹が丼ぶりを持ったまま黙っていると、やがてスースーというロウの寝息が聞こえた。なんて寝付きの良さだとおどろいたけど、春樹の分まで働いて疲れていたのだろう。ヒトヒラ先生について質問したいことはまだいっぱいあったのだけれど、ロウに文句を言う権利は春樹になかった。
春樹は、バケツの中にためていた水で丼を洗って、食事の片付けをした。それから歯を磨くと、口をゆすいだ水を便器に吐き捨てて、ついでに用も足した。寝支度を終えて寝床につこうとしたけれど、いつも春樹の使っている下段のベッドには、ロウがすでに寝ていた。しかたなく春樹は上段のロウの寝床を使うことにした。こちらで寝たのは初めてだったけれど、下段とかわらず、上のベッドもせまかった。センベイのように薄いマットレスの目と鼻のさきに天井があった。春樹は、電灯のひもを引っ張って電気を消した。春樹もロウに負けず劣らず寝付きがよく、暗く狭い部屋のなかで、あっという間に寝入ってしまった。
◇
春樹は不審な音を聞いて、目を覚ました。あたりは真っ暗で、でも大きな音だけは聞こえてきて、春樹は震え上がった。悲鳴だった。
ほんの束の間、自分の声かと思った。またあの夢を見て、泣き叫んでいる自分の声を聞いたのだと。でも春樹は、家族といっしょに焼き殺される夢どころか、ただの夢すら見ておらず、声をあげる理由はなかった。わけがわからなかった。
すこし経って冷静になると、その悲鳴はすぐ下から聞こえているとわかった。ベッドの下の段にいるロウの声だった。なんと、ロウが泣き叫んでいるのだ。これは、ただ事じゃない。春樹は、部屋の電灯をつけると、あわててベッドの上段から床に降りた。
「ロウ! どうした? なにがあった!」
ロウは、下の段で仰向けに寝ていて、意識はないようだった。まさかケガをしているのか、と春樹はロウから毛布を引き剥がした。
ざっと見た限り、血があふれていることもなく、体に穴が空いていることもなければ、手足がありえない方向に曲がっていることもなかった。服もそのままで、これといった異常はない。しかしロウは確かに苦しみ、とても寝ているとは思えない声で叫んでいた。汗もかなりの量だった。
「たす……」
聞き取りづらいけど、ロウは悲鳴の合間に何かを言っていた。
「けて……おね……だ……やめ……やめてくれぇええええ! 」
春樹は、空恐ろしくなった。泣き叫ぶ者を目の当たりにするのが、こんなにもこんなにも怖いことだなんて。このままだとロウが死んでしまうのではと不安になり、春樹はあわててその肩を揺すった。
「おきろ! ロウ、おきろ!」
「ガ、ガァッ! 」
まるで数時間ぶりに呼吸したかのようにロウは思い切り息を吸いこむと、その途端に体を起こした。呼吸はあらく、その目はいつもの三割増しで見開かれ、壁やら毛布やらに視線をあてどなく向けていた。
「だ、大丈夫か、ロウ? すごい汗だ。待っていろ、いま水を……」
「な、なんなんだ! 今のは、なんなんだ!」
ロウは春樹が目の前にいることに気がつくと、その腕を掴んだ。ミカンでも握りつぶすかのように力をこめ、しかも爪を食い込ませたものだから、春樹はうめき声をあげた。でも、ロウはそんな春樹の様子に気づかずにまくしたてていた。
「ここは? ここはどこだ? どうして俺はこんなところにいる? どうして俺は……生きているんだ?」
「落ち着け。ロウ。今のは夢だ、夢を見ていたんだ」
「夢? 夢のわけあるか! だってあれは……俺は、体を焼かれて……」
その途端ロウは春樹の腕を離し、体にもたれかかってきた。春樹は、両肩をつかんでロウの体を起こしたが、両目とも閉じてがっくりうなだれていた。
「ケガや病気をしているわけじゃない。まさか……」
そんな可能性は、考えたくもなかった。でもロウの見せたこの症状に春樹は心当たりがあった。それも痛切に。
「まさか僕とおなじ悪夢を見ているのか? でも、どうしてロウが?」
信じられないことだった。まさか僕と同じような症状の者がいるだなんて……でもどうして急にこうなったのだろう? 昨日までのロウは、せいぜいフゴフゴ寝言を言うくらいで、安らかに眠っていたはずだ。もしもロウが春樹と同じ夢を見ているとしたら、これから毎夜こうなるのか?
いや、先のことを気にしている場合ではないだろう。ロウは、尋常じゃないほど汗をかいているし、息だって荒い。以前の春樹とおなじ症状だとは思うけど、もしかしたらそれは春樹の思い違いで、病気だという可能性もまだあった。
そのとき、ドンドンとドアを叩く音がした。
「おい、うるせぇぞ! なに騒いでんだ!」
隣の部屋で夫婦暮らしをしているチャウの声だった。魚肉団子をつくる小さな工場を経営している中年男で、従業員を殴りながら働かせている乱暴者だとロウは言っていた。
「なんでもない!」
春樹は、声をあげて答えた。
「口の中にでっかい虫が入ってきて、驚いただけだ」
「くだらないことで騒いでんじゃねぇ!」
チャウは最後に一発ドアを蹴飛ばすと、自分の部屋へと戻っていった。
春樹は、ロウの体に毛布をかけ直してから言った。
「待っていろ、ロウ。すぐ医者を連れてくるからな」
「だ……」
そのとき、ロウがうめき声を混じえつつ言った。
「ダメだ。闇医者じゃ……ヒトヒラ先生を……」
「ヒトヒラ先生?」
春樹はおどろいて言った。
「呼んでくればいいのか? でも、先生はこの街にいないんだろう?」
「ジュウケイに、行け。昨日の、あのモールだ……その地下に……」
「地下がなんだ? わけがわからないぞ」
「ローブだ……それがあれば……かもしれない」
「おい、ロウ、何を言っているんだ? わけがわからないぞ?」
しかしロウの返事はなかった。体を揺すったところで、もう反応はない。
「き、気絶したのか?」
ロウは、悲鳴こそあげていなかったものの、荒い息遣いのまま寝入っていた。いまは、悪夢を見ていないようだ。次に悲鳴をあげるとしたらロウが再び夢を見始めたときで、春樹の経験上それは二時間後だった。春樹も、夢を見る時間と、全く見ない時間をつねに繰り返していた。そして、悲鳴をあげるのは、自分が焼かれている時に限られる。
「ヒトヒラ先生を連れてこないと……」
それも二時間以内に。
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