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月面ラジオ {71: 終わり }

{ 第1章, 前回: 第70章 }


彦丸と再会してからというもの、月美の時計の針は、加速しながら回転しているようだった。まるで誰かにいたずらされているみたいだ。でも楽しい時間ほど早く過ぎるのは、小さいころから変わらない真実だった。

あの事件以来、月で過ごした日々は、月美にとって二番目に楽しいものだった。彦丸と会える機会は少なくなったし、いっしょに望遠鏡をつくっているわけでもないけど、それでも彦丸との友情を取り戻したのだから。

西大寺家と青野家は、家族ぐるみで付きあうようになった。たまに青野邸までお呼ばれして、芽衣と食事をしにいった。高層階のフロアまるごとが彦丸たちの邸宅で、エレベーターを降りたら庭園が広がっていることに、月美は何度となくおったまげた。

反対に、月面ラボに青野家を招いて、ルナ・エスケープの面々とパーティをすることもあった。天体観測をしに、みんなでバギーにのって月面キャンプへ出かけたりもした。

それにつきあわされたユエは、イヤな顔こそしなかったけど、しぶしぶ月美を受け入れているんだという態度を隠そうとしなかった。船の乗っ取り計画を阻んだ月美に、複雑な感情を抱いているらしい。

一方でユエと芽衣は、親睦を深めていった。クルー採用試験のころからお互い意識していたようで、ここにきて初めて話しをするようになったのだ。年齢も得意分野も似ているふたりで、なんだかんだで話ははずんでいた。

ほんとうに、時間が経つのは早い。ユエが反乱を起こしてから、すでに三年経っていた。月美自身は何も変わっていないけど、周りの環境は日々変わっていく。月面ラボは、前よりもずっと賑やかになった。ルネ・エスケープ社が、大きくなったのだ。ホークショット教授が何人もだまくらかして、新しい社員を連れてきたおかげでもあったし、パワードスーツが、長期宇宙滞在者のための地球帰還用リハビリ・スーツとして売れたおかげでもあった。月美たちのパワードスーツ事業は、着実に軌道に乗っていった。アルジャーノンは、若き社長として、これまでと違う形で注目されていたし、二十歳を超え、未だ成長期かというくらい日々たくましくなっていた。ホークショット教授、マニー、ハッパリアスも変わらず月面ラボで暮らしていて、「ルナリアによる地球降下プロジェクト」を立ち上げたアルジャーノンを支えていた。

一番たいへんそうなのは芽衣で、月面大学の卒業が二ヶ月後に迫っていた。卒業後は、「第二次外惑星往還クルー候補生」の訓練を受けつつ、ロボット・エンジニアとして月面都市で働くそうだ。残念ながら芽衣は、最初の遠征クルーに選ばれなかった。けれど、「次のチャンスこそは」と息を巻いている。進路が決まっていても大学の卒業試験が簡単になるわけじゃない。芽衣は、この四年間ずっとそうだったように、ヒィヒィ言いながら研究課題に没頭していた。

ユエはというと、あい変わらず月面都市で暮らし、ルナスケープで宇宙船を作っていた。あれだけのことをしでかしたのに、まったくお咎めがなかったのは驚くべきことだった。まさかバレなかったのだろうか? それとも天下のルナスケープにとって、宇宙船のエンジンをふかすことなど、高校生が隠れてタバコを吸う程度のことでしかないのか? 納得いかない月美に、「ユエは特別扱いだ。ルナスケープで何かしらの裏取引があったんだよ」と、ホークショットは知ったふうな口をきいた。

最後に彦丸の近況だ。彦丸は、いよいよ旅立つ日を迎えていた。木土往還宇宙船が、外惑星に向かって出発するのだ。

「芽衣もすっかり月の住人ね!」

陽子は、感心しきって言った。おとなになった娘をその目で確かめ、いかにも誇らしげだった。

月美の姉、西大寺陽子は、ティーテーブルの椅子に座っていた。その向かいには芽衣がいて、さっきからふたりで話し込んでいた。月美は、部屋のすみっこでプカプカと浮かびながら、ふたりの様子を眺めていた。

芽衣は、紅茶の入ったタンブラーを口から離し、テーブルの上に置いた。それからため息混じりに言った。

「『月の住人』は、第二希望だったんだけどね。ほんとうなら、今ごろあの船で出発しているはずだったのに……」

「我が娘ほどの逸材でもだめだったか……」

「クルーの試験って信じられないくらい難しいのよ。」
 芽衣はふてくされていた。
「私じゃまだまだ実力不足だった。」

「でも、第二次クルーの候補生として残ったんでしょ?」

「候補生として訓練を受けるってだけで、試験や競争がなくなるわけじゃないけどね。でも、前ほど可能性が低いわけじゃない。」

「よかったじゃない。」

「よくない!」
 芽衣は言った。
「二回目の外惑星行きがあるとは限らない。あったとしても、十年後なの。そう思うとうんざりする。」

「十年経っても芽衣は若いんだ。」
 月美が口をはさんだ。
「たいしたことじゃないよ。」

「たいしたことよ!」

芽衣が納得した様子はなかったけど、月美は気にしなかった。十年なんてあっという間だ。十年経てば、芽衣もそれが真実だったと気づくだろう。

「子どものころは、世界がこんな風になるなんて想像もしなかったな……」
 陽子は言った。
「月美と芽衣はラグランジュのホテルにいて、私は地球の家にいる。なのに、本当にテーブル越しで話しているみたいだなんて……」

「そりゃ、仮想空間だからね。あたりまえじゃない。」
 芽衣が言った。

「前に旅行に行ったときも思ったけど、月って意外と近いのね。世界は本当に狭くなった。」

「どうしたの、急に?」
 芽衣は首をかしげた。

「百年前、手紙をやり取りしていた時代に比べれば、木星なんてご近所さんみたいなものね。私やお父さんのことなんて、気にせず行っておいで。」

「うん、わかった。」
 芽衣はうなずいた。
「お母さんも元気でね。」

まるで今から出発するみたいだな、と傍から見て月美は思った。

「それから……」
 と、陽子がこちらを見た。
「元気だしててね、月美。」

「私は元気だよ。」

月美は答えた。ぼんやりしていたら、いつの間にか体が逆さまになっていた。

「地球に帰ってくる時は、連絡しなさいよ。またいっしょにビールを飲みましょう。」

「わかった。陽子も元気でな。」

「それじゃぁね。」

陽子の姿が消えると、あたりが急に静かになった。空調の音だけが、やけにはっきり聞こえる。芽衣は黙ってこちらを見た。

月美は、泳いで窓の前まで来た。窓の外は、見事に二色に割れていた。空間の半分を地球の青が、もう半分を宇宙の黒が占めている。今日の地球は雲が多く、青と言ってもほとんどが白なのに、それでも青く輝いているのだから不思議だった。

「いい部屋だ。」
 月美は言った。

ラグランジュ城のホテルでもここはとくに見晴らしがよく、いつも予約でいっぱいだ。今日という「記念日」に、こんな部屋がとれるだなんて奇跡に近いけど、彦丸ほどの金持ちになると、それは造作もないことらしい。彦丸を見送るための部屋を彦丸に予約してもらうというのも変な話だけど、月に来たって貧乏なままの月美は、彼のご厚意に甘える他なかった。

「そろそろやってくると思うわ。」
 芽衣がとなりに立って言った。

「十年後、次は芽衣をこの部屋で見送るのかな?」

「私がクルーに合格したらね。そのときはファビニャンも合格するといいな。」

「ひとりだけ合格したら、ずっと離れ離れなるんだろ? それでもお前たちは結婚するつもりか?」

「うん。」
 芽衣はうなずいた。
「ふたりとも合格する予定だけどね。」

「結婚か……」

「その……」
 芽衣はおずおずと言った。
「月美ちゃんは、これからどうするつもりなの? 結婚とか、家庭とか……」

「家庭を持つつもりはないよ。彦丸にもふられたしな。」
 月美は言った。
「これまでずっとひとりだったんだ。芽衣が思っているほど、傷ついているわけじゃないよ。」

芽衣は何も答えなかった。質問しにくいことを質問した手前、なにか話を続けようとしてはいたけれど、結局話題を思いつかなかったようだ。代わりに月美が続けた。

「私だって、そういう『幸せ』を考えたことくらいあるさ。月曜から金曜まで働いて、たまに休みをとるんだ。平日の朝からこどもを連れて、上野の科学博物館に行く。まだ空いている時間帯を狙って、ふたりで古い望遠鏡の展示を見るんだ。子どもは望遠鏡なんかに興味ないけど、私は楽しい。そんな幸せさ……でも、月で這いつくばって働いている方が、私の性に合ってる。だから今はとても幸せなんだ。これまでずっとそうだった。」

「月美ちゃんは、もう地球に戻らないの?」

「月に残る。たとえ彦丸がいなくてもね。でも、アルが地球に降りる時は、私もいっしょに行こうかな。社員みんなで地球旅行しようって、あいつも言ってるしね。」

「アルは、地球のどこに行くつもりなの?」

「ムー王国だってさ。」

「よかった。」
 芽衣は胸をなでおろした。
「月美ちゃんがとことん明るい人で……ん?」

急に芽衣が顔を上げた。

「どうした?」

芽衣は、目を細めながら窓の外を見ていた。それから声を上げた。

「あ! もしかしてあれじゃない?」

「どこ?」
 月美は窓にはりついた。
「あ、あれか! もう少し大きく見えると思ったんだけどな……」

ちょっとがっかりだった。あの船ならもっとはっきり見えると思ったんだけど、遠くを航行しているせいで、親指くらいの影が彼方の航路を流れているだけだった。

木土往還宇宙船が、たったいま地球のそばを通っていったのだ。今日のラグランジュ城は、旅立つ船を見送る人たちでごった返していた。隣の部屋でも、そのさらに隣でも、アルジャーノンと出会ったあの展望台でも、今ごろはたくさんの人が集まり、船を見送っているだろう。

すさまじい速さだった。船が通ると知らなければ、通りがかった彗星だと月美は思ったかもしれない。地球の重力でさらに加速した船は、彗星のようにまっすぐ突き進み、地球の影に隠れてあっという間に見えなくなった。

「行っちゃった……」
 船が消えてしばらくすると、芽衣が言った。
「あっとい間だったね、月美ちゃん。」

ほんとうに、あっという間だった。感慨にふける時間すら与えてくれない。そういえば、前にもこんなことがあったな、と月美は思った。

「あいつは、いつもあんな風に私の前を通り過ぎていくんだ。」
 窓の外を見つめ月美は言った。
「出会った時もそうだった。私が呼び止めたのに、あいつは無視して自転車で走り去ったんだ。アメリカに出発する時だって、あいつの乗っている電車を見送ったよ。」

「月美ちゃん……?」

「最近は……そうだな……窓の外を、宇宙服姿のあいつが泳いでいった。でも、あの時は私を助けに……来て……」

声が震えた。

「助けに来て……くれたんだ……」

それ以上言葉が出てこなかった。目が熱くなり、濡れて前が見えなくなった。気がつけば、涙の粒が顔のまわりを漂っていた。

「つきみちゃ……」

月美は芽衣に抱きつき、彼女の胸に顔をうずめた。声を出すまいとしても、そう思うほど嗚咽してしまう。月美は、芽衣の肩を強くにぎった。痛かったはずなのに、芽衣は何もいわず月美を抱きしめてくれた。

月美は泣いた。彦丸といっしょに望遠鏡を作ったころを思い出して、泣き続けた。何を差し出してでも取り戻したかった日々は、もう二度と戻ってこないのだ。月美は、永遠に泣き続けると思った。でも、終わらない物語がないのと同じように、涙だっていつまでも続くものじゃない。もとより、月美はそんな性格じゃなかった。

三十年間ためこんだ涙を出しつくしたころ、ぐちゃぐちゃになった顔を見られまいと、芽衣を押しのけて月美は顔をあげた。窓の外を見た。青い地球が弧を描いていて、その上に宇宙があった。宇宙は、どこまでも広がっている。私の大好きな人は、そんな宇宙に憧れて旅立ったのだ。

「どこにだって行っちまえ。また会いに行くからさ。」

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