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マルクス経済学者に「働く意味は何か」を聞いてみた

人間にとって労働が疎外であるならば、何のために労働運動をするのか。

「働く意味は何か」は、「労働運動する意味は何なのか」という問いに等しいのではないかと思い、そのへんどう考えたらいいのかわからなくなり、マルクス経済学者にメールで質問してみました。以下、送られてきた回答です。

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そもそも「働く」こととはどのようなことなのか?という問題ですね。なぜ働くのか?という問いであれば、収入のため、働かなければ生活ができない、というあたりまえの答えでお茶を濁すことになる。

働かないと食っていけないとして、ではなぜ、あれやこれやのいろいろな仕事があるなかで、その労働を選択したのか?という次の質問にも答えないといけない。風俗でいえば「なぜ風俗の仕事を選んだのですか?」ということを、金銭の動機とは別に、風俗での具体的な行為(マルクスなら具体的有用労働と呼ぶでしょう)が自分にとってどのような「意味」があるのかに即して答えるという問題になります。いいかえれば、この労働=セックスワークが自分の人生にとってどのような肯定的な意味を与えてくれているのか、という問いにたいして、自分ひとりの主観的な思いとか人生の経緯とかではなく、だれもが納得できる合理的な説明ができるかどうか、です。大切なのは、主観ではなくて、誰もが納得できる合理的な答えを提示することです。これはあらゆる労働に関してもいえることです。しかし、これには誰も答えられないのです。なぜこの仕事をするのですか?という質問に皆答えるのは、自分の人生の経緯とかの体験談みたいな話しかできない。ここに労働の意味の限界があります。

資本主義の労働は、どのような労働であれ、自分の人生にとってかけがえのない、唯一の選択として今ここでやっている労働を誰に対しても納得いくようには説明することができないようになっています。つまり、働くことの意味を労働者は合理的に説明できない環境のなかに置かれるように仕組まれているのです。そのかわり、自分の行為を「金銭」の額に関係づけて、「金銭」が生活を維持するための消費の手段となることで労働の具体的な行為の意味を誤魔化されているわけです。食うためには働かなきゃならない、あたりまえだろう!このボケが!!とか言われてしまうわけです。

だから、「なんでこんな仕事しているんだろうか」とか働く意味にふと深い疑問を抱いたりすると、答えはありませんから(資本主義というシステムでは答えが奪われているので)、ときには悩んでしまう場合がでてきます。労働は資本主義では神聖な位置にあるとされながら、実は多くの人たちは、この神聖さとはあまりにもかけはなれた仕事で自分の人生を半ば資本の餌食にされている。働かなければ怠惰だと罵しられ、働いても、仕事の内容によって蔑まれたりする。

なぜ、労働の意味が奪われるのかというと、資本主義では、<労働力>が商品になるからです。買い手は資本家です。資本家の意思によって管理されて働くわけだから、自分の労働を自分で決められない仕組みになっている。自分であって自分ではない時間が労働時間です。しかも、資本にとっては、最も効率的に労働させて儲けをあげたいわけだがら、景気や流行や様々な要因を考慮しながら、労働者の労働を変えさせ(配置転換とかいろいろ)、あるいは馘首にして別の労働者と入れ替えたりもする。労働者も、労働そのものが人生の目的ではなく、「金銭」を取得するための手段だから、今この仕事に自分の人生の意味を見出すなどということ(昔かたぎの職人や、アーティストなどはこうした傾向があるので資本家にとっては扱いにくい存在ですね)よりも、より収入のよい仕事を選択しようとして労働市場で求職活動をすることになります。労働の具体的な行為の意味にこだわることにない人たちが大量に生み出されます。

 疎外というのは、こうした資本主義の仕組みでいえば、自分の人生のかけがえのない時間をなぜそのような「行為」に費すのか、について金銭動機以外の合理的な理由を見出せないことで起きます。

とはいえ、働くことに様々な意味を見出し、働き甲斐を持つ人たちがたくさんいます。こうした人たちがいるのは、意味を剥奪された行為をそのまま生きることは人間にはできないからです。資本に奪われた時間を生きるだけなのですが、これをあたかも自分の天職だとか、生き甲斐のように「感じる」ひとがいるのは、剥奪された意味の空白を資本主義の支配的な価値観が埋めあわせようとするからで、多くの人たちも必死になって自分の労働に意味があることを自己納得させようと必死になります。しかし、この埋め合わせは本来の行為の意味を与えるわけではないのでうまくいきません。だから、悩む人たちがおり、心理学や精神医学が職業となり、自己啓発から宗教まで様々な人生の価値や意味をとりつくろうための仕組みがなくならないのですね。

もうひとつ大切なことは、この労働の意味には、社会が行為に与える価値観の序列が反映しているということです。この序列は学歴によって制度化されるとともに、文化的な価値や権威といった要素で差別化される。風俗の労働の場合は、性労働なので、恋愛や夫婦間の性交渉との間の差別化によって下位に位置付けられて差別されるような構造にはめこまれます。これば、家族の価値や性交渉=世代の再生産という観念、家父長制の観念といったこの社会の価値観の再生産構造そのものを下から支えているものです。(ぼくは資本主義的一夫多妻制と呼びます) 支配的な価値観からすれば、セックスワークは価値の低いものとみなされるわけで、こうした価値の低い労働を選択することそのものがもうひとつの疎外の要因となります。ここでの疎外は労働の意味が剥奪されているということだけでなく、「本来あるべき」と社会がきめる性の秩序から排除された存在という意味での疎外です。

社会が決める「本来あるべき」存在の秩序にはいろいろあり、病いにある人は健康な身体に対して、老いた人は若く活力に満ちが身体に対して、障害者は、健常者に対して、それぞれ「本来あるべき」人間の身体モデルから逸脱したものとして周縁に配置されて差別されることによって、「本来あるべき」存在の価値を高める役割を担わされます。ここには、失業者と就業者、非正規労働者と正規労働者といった様々な中心と周縁の間の差別の構造があり、ジェンダーやエスニシティもこうした構造をはっきりもっています。このなかで、周縁に位置付けられる理由に合理的なものはなく、社会がそのように位置づけているからそうなんだ、という同義反復によって、不合理に差別されることになります。

他にも疎外をめぐる問題はたくさんあると思います。最大の課題は、行為の意味を復権させることです。資本が奪った行為の意味を奪いかえすこと。セックスを別のことばで言い換えることをやめることです。セックスワーカーのセックスも夫婦や恋人のセックスも平等なセックスになることでしょう。そのときたぶんもはやセックスという言葉は不要になっているかもしれません。

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