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【3-0320】卒業を卒業しても

【このnoteを開いてくださった貴方へ】
こんばんは、要小飴と申します。
関西にある遊気舎という劇団の末席に身を置き、演劇に勤しんでいる者です。平日昼間は保育園の先生をしています。
このnoteは、そんな私が日々の所感を記録しながら、自分の思考を再確認したり、自分なりの表現を探したりする、そんなものにしたいと思っています。

卒園・卒業の季節だ。

学生のときには気付かなかったけれど、卒業が出来る回数というのは、人生である程度決まっている。もちろん、大人になってもう一度学校へ行く人もいるし、学校ではなくても自分の学び舎になる場所を得てそこを去るということが全くないとは言わない。けれど、例えば、6年とか、3年とか、4年とか、そんな短いスパンで「卒業」という終わりを迎えるというのが、人生において稀な状況であるということに気付くのは、「卒業」が自分ではなく誰かの話題として耳に入るようになる頃だ。

「卒業」を失った私は、終わりのない生活をしている。小学校、中学校、高校、大学と、どこかを卒業するごとに、新しい自分を獲得してきたような気がする。今は何かと区切りはあるものの、それは私の時間を完全に切るものではなく、玉ねぎのみじんぎりの序盤みたいに、上端がつながったまま切れ込みだけが入っているような感じだ。

しかし、そう言いながらも、大きな区切りがなくても、自分がグラデーションも滑らかに変化していることに、改めて気付いた。出会う人や物事への自分の反応で、「ああ、私はこういうのが好きなのか」とか「これは苦手かもしれない」とか「理由はわからないけど、これに心揺さぶられる」とか、そういう気付きがたくさんある。心情はもちろん、その心情に気付けるようになったという点も大きいかもしれない。以前だったら、よくわからぬまま、無自覚に傷付いたり、夢中になったりしていただろう。

だから、卒業を卒業しても、人は着々と自分のペースで進級していく。卒業のない進級は気が遠くなる気もするが、それが生活の醍醐味かもしれないなと、大人になればなるほど思う。


いつも見守ってくださってありがとうございます! これからも表現活動、創作活動に勤しんでまいります。 要🍬 小飴