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【3-1027】めでたしめでたしにはならない

【このnoteを開いてくださった貴方へ】

こんにちは、要小飴と申します。


関西にある遊気舎という劇団の末席に身を置き、演劇に勤しんでいる者です。平日昼間は保育園の先生をしています。

このnoteは、そんな私が日々の所感を記録しながら、自分の思考を再確認したり、自分なりの表現を探したりする、そんなものにしたいと思っています。

私は、演劇について、元よりこういう↑楽しみ方をする人だ。物語に没頭する瞬間はあっても、どちらかというと、虚構と現実の縫い目をなぞるような、観客という立場でなければ味わえない感触を楽しんでいる。

だから、演劇の物語は、物語として受け取る。そこに含まれている、人生についての考察とか訓示みたいなものも、あくまで物語の一部として受け止める。それ以上でも以下でもない。演劇を観て人生を悔い改めたりしない。いつもは。

それが、一昨日の『小さいエヨルフ』ではそうならなかった。

『小さいエヨルフ 』を観たよ。
なんだか奥の方をガサっと傷つけられた感じがした。誰かといて幸せでいるには、どんな思いでも、思いの量が同じくらいの人といないといけないんだろう。量が同じくらいのときだけ。その量もしだいに変わっていくし。
というのが、今の感想。

『小さいエヨルフ』観劇直後のポスト

少しだけ補足すると、仕事でも恋愛でも、どんな関係性でも誰かと共にいて、ちょうど十分に満たされるには、その相手と自分の思いの量が同じくらいでなければならないということだ。その量の多い少ないはあまり問題ではなくて、例えば愛情とか、熱意とか、そんなものを相手が3しか持っていないとして、自分のそれも2とか4であれば、思いの総量は7くらいであっても、ちょうどよい。でも、自分が78とかそんな相手の何十倍の量を持ってしまっていたら、総量は81でも不幸になる。互いに不幸になる。人の気持ちというのは変化するものだから、ちょうどよいバランスの時間が長く続くとは限らない。人生は「めでたしめでたし」にはならないのだなぁ。

と、まあ、こんなことを考えたのだけれど、こういう思考が、お芝居を観ている途中に、耳に吹き込まれたような感じがしたのだ。頭を掴まれて「両者の気持ちの均衡がとれてないと不幸を生むんだよ。だから、なんだよ。」と耳元で囁かれているような心地になった。

物語に没入するわけでもなく、かと言って一歩引いて傍観するわけでもなく、頭を掴まれてそれだけをダイレクトに耳元で告げられるような。初めての感覚だった。

普段と何が違うのか。劇場の仕様か、芝居の近さか、脚本か。はたまた、観る私の内的なものか。

まだ自分では判然としないのだけれど、演劇から受け取ったメッセージがいつもより強く脳裏にこびりついている。人生を少しだけ振り返ったりして、ある意味で鮮烈な観劇経験になった。

 


いつも見守ってくださってありがとうございます! これからも表現活動、創作活動に勤しんでまいります。 要🍬 小飴