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【2-1206】予定調和は蜃気楼のようなもの

こうあるべき、ということに悩まされることがある。それは必要、必然、法律みたいなものもあるが、中には「予定調和的に」というのが紛れている。

私は結構この「予定調和的に」というのに、苛まれることが多い。「理想」と言い換えることも出来そうだが、それも「めあて」「お手本」みたいなものではなくて、良くも悪くも「流れ的にAのあとはBだろ」みたいな、ある意味での思い込みみたいなものだと思う。「そうなるはずなのに」なのか「そうはなりたくない」なのかは時と場合によるけれども。伝わるだろうか。

でも、この思い込みをもっと細かく見てみると、実は『「流れ的にAのあとはBだろ」とみんな思ってるだろうな』という私の思い込みだったりする。伝わるだろうか。

これがやっかい。そして、結構そんなこと思われてなかったりする。いや、突っ込んで聞いてみるとその言葉は引き出せるかもしれないけれども、突っ込まなければ念頭にないのだ。念頭にある人からはだいたい先に向こうから突っ込みがある。

自分の人生の責任をとるのは自分だから、だからこそ他人が気になるのだけれど、最終的には自分に問うしかない、ということを強く思いながらいつも忘れてしまうなあ、と一年のうちに何度思うのだろう。

予定調和という言葉は、この世の全てのことが、神様によって事前に調和するように設計されている、ということなんだって。神様は計算間違いが許されないお仕事。少し気の毒だ。

それに比べれば、私の手が届く世界の調和は、多少乱れてもリカバリーが効く。「ごめん」と「待った」と「もう一回」を何度も繰り返す覚悟が、何よりも必要で、何よりも難しい。





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