「ツナガリ」を再認識する
私はしばしば「ツナガった」と感じることがあります。
とても言葉では言い表せないような感覚で、「ツナガった」瞬間にそれは分かるのです。
きっと目に見えない筋繊維みたいなものがナニカにつながった時にそれらが起きるのでしょう。
それらは様々な場面で感じることが出来ます。
例えば、嫌いだった人の新たな一面を知った時、アニメーションで何故か分からないけど感動した時、親と和解した時…
しかし、時には自分の思いのためにそれらを断ち切る事があります。そのような時はまさに我が身を断つ時と同じような気持ちになります。逆に、他人から無遠慮にそれらを断ち切られると心の奥底が痛みます。
そして、時には自分が誰かのそれをやってしまう事もあります。(大抵それはやってしまった後に分かるから困ります。)
痛みの始まりは中学一年生の頃…
私は限りなく広がっている物語の世界に心を掴まれて、アニメーションにどっぷりハマっていきました。実際にアニメーションが魅せてくれた素晴らしい世界の数々は未だにアニメーションの事を分からせてくれません。
しかしながら、沢山の自分の思いもよらない世界に「ツナガって」いくことで、私はたくさんのものを傷つけて、同時に傷つけられるようになっていきました。
これは妙に確信をもっていることなのですが(決して認めたいわけではないのですが)私はこれからもずっとそれらに悩まされ続けることでしょう。
私は思います。
「ツナガル」ことは必ずしも良いこととは限らないと。
「ツナガった」ということは切る切られるというリスクを伴うからです。そもそも「ツナガル」と感じるということはそれまで「ツナガって」いなかったという事なのですから。
しかし、私は「ツナガル」ということを否定的に捉えたくはありません。むしろ人間の根本にある愛おしむべきもののように感ぜられるからです。
神さまが母子のへその緒を切ってしまったのは、もう決してつながらない、でもつながりたい。
そんな思いを忘れないで欲しいと思ったからなのかもしれませんね。
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