私はコピー機の前で泣いていた
2020年の暮れ、私はコピー機の前で泣いていた。
ぼろぼろ、ぼろぼろ涙が溢れるが、そんな私をよそにコピー機は次から次へと紙を吐き出している。
ここは、だだっ広い会社のオフィスでもコンビニでもない。
自宅の隣の、小さな事務所。
印刷しているのは、今年のさつまいも栽培の報告と、昨年度の干し芋加工、販売の実績、そして今後について書かれたkeynoteのデータだった。
その日は、午後からさつまいも生産者さんとの慰労会だった。
しかし私にとっては、ただの慰労会ではなかった…。
中止になった加工所建設
「村の承認を得ずに!」
「村んしょはほとんど反対している!」
「もう帰る!話にならない」
1人は席を立ち、集会所のふすまをドンっと閉め、ドタドタと階段を降りて行った。会場はしん、となった。
「おめさんが、村を分裂させたんだ」
「なして、そうなるとい」
また賛成派と反対派で言い合いが始まった…。
これは今から3年前、2018年夏、新しく作る干し芋加工所についての地域説明会での出来事だ。
さつまいもを栽培し続け、2013年から委託加工で小さく始めた干し芋加工。
自社ECサイトで直販をし、売り上げがどんどん伸びていった。販路も、さつまいもを栽培してくださる連携農家さんたちも年々増えていった。
「干し芋は地域の農業を支える、特産品になれるかも!」
生産者さんたちも私も、そんな予感を抱きながら、毎年規模拡大をしていた。
とうとう地域に干し芋加工所を作ろうと本格的に計画が始まったのが2017年だった。地域に加工所ができることはつまり、農家にとって冬の仕事が生まれることで、地域に定住者を増やすためにも、(私がやらなくとも)以前から求められている案件だった。生産者さんたちからも応援をいただき、加工所建設という挑戦への勇気を育ててきた。
1年かけて、関係者にも話し、何度も集会所で相談、説明してきた。
さつまいもを作ってくださっている農家さんだけに合意をもらってもダメ。
関係してない農家さんや、農家でもない人たち、つまり住民全員から合意をもらわないと、地域では何もできないのだ。
「私は聞いてない」という人が出てしまった時点でゲームオーバーで、もう取り戻すことはできないのだ。
それがルールだった。
そのルールを外さないように気をつけていたつもりだった。
しかし、時間をかけても、建設賛成派と反対派で、分かれたままだった。
出資をしてもらってるわけでもない。
事業に関わっているわけでもない。
そういう人たちの「事業に対して」ではなく、「私個人に対する」個人的な感情のせいで、本当に頑張ってくれているさつまいも農家さんたちの願いや希望が、踏みにじられるようだった。悔しかった。
そんな彼らは声が大きく、影響力が大きい。そして時間がたくさんあるので、叩き潰す対象を見つけたら徹底的に行動し、あることないこと噂を広め、根回しをしていた。その頃、いろんな人から「なんか大変ねぇ」「ありゃほんとかい?」と声をかけられるようになった。
現場の農作業と、加工所計画と、子育てでいっぱいいっぱいだった私は、全く太刀打ちできなかった。噂は広まり、聞かれるたびに「いや実は」と説明するのもしんどくなってきた。
まるで火消し作業だ。
そうして私は壊れていった
思い返せば、対話をする中で反対派からは、いろんなことを言われた。
「この集落に住んでいない奴が、地域を語るな(移住した地域ではあるが、結婚を機に、別の集落に移り、通いで農業を続けていた)」
「自分ばかりメディアで目立つのが気に食わない」
「なんでも勝手に決めるな」
「おめさん(私)が地域を活性化させた感じになってるのが気に食わない」
「子育てしながら、事業ができるわけがない。農業辞めて子育てに専念しろ」
「結婚したんだから、農業辞めて旦那さんの仕事(家業)手伝え」
「補助金を使って建てるのが気に食わない」
「静かに暮らしたいのに、パートさんなどが行き来するのが嫌だ」(言っておくが、都市と農村との交流として地域おこしを盛んにしていた地域で、集落で仕事を作ることが目標となっていた)
「こんな場所で加工所や干し芋事業なんかできるわけがない」
勘違いも中にはある。twitterで言う炎上が、リアルで行われている感じだった。女性で若いのもあってか、ここでは書けないくらいのとんでもない言葉の暴力や、嫌がらせやパワハラもいただいた。
農業があんなに楽しかったのに、畑に行くたびに胸がざわざわするようになった。
このあたりから、よく過呼吸になり、眠れなくなり、震えと涙が止まらなくなった。対話が通じないこと、対話さえ拒否されることの繰り返しに疲れてしまった。ずっと踏ん張って向き合ってきたが、とうとう、私は崩壊した。
着工直前にして、加工所建設計画は中止となった。
手放したら、新しい風が
「やっぱり正しかったんだって、見返すために、頑張りましょうよ」と行政の方から言われた。「はぁ……でも、もういいです」と力なく答えるしかできなかった。見返す力があるなら、その力を、もう誰かのためや地域のためにではなく、本当の自分の幸せのために使いたい。
私を消費するだけして、目立ってきたら叩き潰す、そんな社会に愛想が尽きてしまった。
それから2年間、本当に苦しかった。
社員はいなくなった。
取締役も解散させた。
私ひとりぼっちになった。自由だ。
自由になり、手放すもの手放したら、新しいものがひゅうと入ってきた。
ごったくさん親子だった。
二人は私の事務所に訪ねてきた。
「女性農家がチャレンジできる加工所を作りたいと思ってて、かなちゃんがやろうとしてた加工所について話を聞かせてほしいんだ。」
ごったくさん親子は、共同食品加工所を計画していた。
「もしよければ、干し芋加工もそこで一緒にやってみない?」
そう言われたが、当時は(いや、もう農業自体、辞めようと思ってるしな)と斜に構えていた。
けれど、ごったくさん親子には、私が移住した当時からお母さんのようにとてもとてもお世話になってきた。
(干し芋はやらないかもしれないけど)今まで私が積み重ねてきたものが役に立つなら、力になろう。
私は、ごったくさんの夢を、お手伝いするようになった。
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時間が経って、心も落ち着き、失敗を分析できるようになってきた。なぜこうなってしまったのか、に向き合う度に涙が止まらなかった。
私自身の本当の弱さや、ダメな部分に向き合う作業だったから。
何度も「私って、サイテーでクズで、生きづらい」ってガッカリした。
失敗の大きな原因は、私のコミュニケーション不足だ。
経営、栽培、人、もの、お金の管理に、子育て…キャパオーバーだった。
当時いろんなことを言われたが、おそらく彼らが一貫して訴えていたのは「もっと私(俺)を重要に扱ってほしい」ということだと気付いた。「自尊心が満たされないと、相手に批判的になる」と、その後心理学を学んで、さらに腑に落ちた。私は全然大切にできてなかったのかもな……。
それから、メンタルヘルスや臨床心理学、組織論、U理論、メンタルモデルの本を読み漁った。少しずつ、出来事を俯瞰して見れるようになっていった。
かと言って、まだまだ、再チャレンジする気は起きなかった。
「とにかく、みんなで慰労会しましょう!」
2020年春。
加工所失敗から2年が経った。
やっぱり私は、農業を続けるかどうか、決めかねていた。
しかし、畑に行くたびに胸がざわざわする。軽トラのハンドルを握る手が震える。あんなに楽しかった農業が、辛い。
「でも……」今まで応援してくれた師匠や地域の方の顔が浮かび、はっきり決めることができないでいた。
そんな気持ちを引きずったまま、新しい生産者さんの所へ畝立てに行った。
昭広さんという、50代の方だ。
中山間地域でありながら、兼業で稲作を3haほど耕作している。鉄人だ。
その年から「自分も作ってみたい」と声をかけてくださった。加工所計画の時から気にかけてくださり、とても嬉しかった。
嬉しかったけど、私は正直に今の気持ちを言わねばと思った。
でないと、また前みたいに、みんなは私に絶望する。
「あの…栽培してくださって、本当にすごく嬉しいんですが、実は、干し芋自体、私も農業自体辞めようか悩んでいるところで…。正直これからどうなるか、分かんないです」
あぁ、こんな私に、きっとまたガッカリするだろうな…私に近寄る人は、結局私を嫌いになって離れるんだ…。心臓がバクバク高鳴った。
「まぁ、そういう気持ちになるよね!」
昭広さんの言葉は明るく、サクッとしていた。
「うーん、分かりました!じゃあ、続けるかどうかは置いといて、まずはこの栽培シーズンが終わった年末とか、みんなで慰労会しましょう!生産者みんなで!
そこでさ!みんなに、夢を語ってくださいよ!大丈夫ですから!」
年末に慰労会…。
その年、私のゴールが年末の慰労会になった。ひとまずそこまで走ってみよう。
風の向きが少しずつ変わる
その頃から、不思議と風向きが変わってきた。
自分もさつまいもを作りたいと声をかけてくれる生産者さんが出始めた。
旧知の仲間が、自然と集まるようになってきた。
私の辛さや悩みは、女性農家や新規就農者共通のものだと気付いた。そして女性農業経営者の相互扶助コミュニティ「women farmers Japan」をごったくさんたちと立ち上げた。女性農家一丸となって経営力と内面を高める学びを始めた。
私自身が本当にやりたかったことが分かってきた。少しずつ、自分が回復していくのが分かった。
バイヤーからお声がかかり、干し芋に大手の販路がつき始めた。
そして改めてごったくさんに「事業を一緒にやろう。かなちゃんの味方だから」と声をかけていただいた……。
私は立ち止まったままのに、風が、干し芋を続けなさいと言っている。
そう感じた。
それは「あなたは、もう少し生きなさい」というメッセージと同じだった。
自分のために生きる
もう一つ、大きな出来事があった。
その年、移住当時から農業を指導してくださった師匠は85歳となり、さつまいも栽培から卒業した。
師匠のさつまいもはとても美味しく、街で好評だった。奥様が亡くなられてから、私も一緒に、この美味しいさつまいもをもっとたくさんの人へ届けたいと思うようになった。師匠から本格的にさつまいも作りを学び、そして8年前、干し芋作りが始まった。たった10kgのさつまいもから始まった。ここが始まりだった。
さつまいもは他の作物とは違い、今まで積み重ねてきた土壌のありようが、味に大きく影響する。つまり大地の記憶を写しとる。私は素晴らしい畑を、師匠からお借りしている。
しかし、師匠は、もうさつまいもを作らない。
一気に力が抜けた。
「あぁ、私は師匠と一緒に農業するのが楽しかったんだなぁ。」
……なぜ?
農業を通じてたくさんの世界を見せてくれた。
たくさんの価値観や生き方や世界観を伝えてくれた。
小さな変化に、感動し、喜んできた。
「師匠と過ごし、多くの生き様を学んできた10年間をなかったことにしたくない」
世の中に絶望したけれど、師匠と過ごした10年間は、宝物だと気付いた。
自分が大切だと思うものを、大切にするために、私を信じてくれている仲間たちと、もう一度、頑張ってみよう……。移住してからずっと、誰かのため、何かのために頑張り続けていたが、初めて「自分のために」生きようと思った。
2020年の終わり、私はコピー機の前で泣いていた。
そうして、年末がやってきた。
さつまいも生産者さんたち、干し芋加工に携わってくださった方、全員に声をかけた。「初めて、全員が集合して、慰労会をします。」
そして、今年のさつまいも栽培の報告と、昨年度の干し芋加工、販売の実績、そして今後について書かれたデータを印刷し始めた。
このフォーマット、見たことがある。
2年前、何度も説明するときに、使ってきたページだ。
辛かった日々を思い出した。
人を信じることに疲れ、誰かのため、地域のためにはもう頑張れない、頑張りたくないと絶望し、かと言って、生きること、死ぬことも、逃げることも苦しい。人と向き合うことに消耗され、うつろな目をしていた自分から、ぽろぽろ流れていた、あの時の涙。
私はコピー機の前で、あの時とは違う涙が、止まらなかった。
全部辞めよう。そんな選択肢も考えていた私を見切らず、さつまいもを作り続けてくれた生産者さん、新しく作り始めてくれた生産者さん、沼に落ちていく私の腕を引き上げようとする先輩農家さんたち……。
私は、生かされてしまっている。
私を、生きさせてくれた。私を信じて、今も残ってくれている人がいる。
今まで、力を貸してくださっている方たちとも、向き合うことから逃げていた。
初めて、集落を超えて存在する生産者さんたち全員が、一堂に会する。
そうだ、私は今まで、全員を同じ場所に集めて会を開いたことがなかったのだ。
向き合うことは、やっぱり怖い。
でも今は違う。
一歩踏み出すのだ。
一人で踏み出すことが怖いなら、みんなで踏み出そう。
慰労会。
印刷した資料を説明しながら、未来の話をした。
「もう同じ失敗は、繰り返さないように…」と言ったところで、また涙が止まらなくなった。顔が上げられず、資料はぼたぼた落ちる涙に濡れた。
会場がしんとする。
勇気を出して顔を上げた。
そこには、みんなの温かい目があった。
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