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今日一日頑張ったあなた、眠れないあなたへ、山から吹く風を

小説「マザージャーニー」の一部をお届けします。眠れぬ夜のおともにぜひ…

水の中を一歩、また一歩、踏み出すたびに、おたまじゃくしがワッと広がる。
水面はところどころでまばたきする。
その奥には、知らない生き物がたくさんいて、彼らが動くたびに、夏のサイダーのように若い泡がぶくぶく立ちのぼっていた。ピンと伸びた稲の苗を、柔らかな泥にぬっと差す。


苗から手をはなし、そうっと持ち上げた自分の短い指先から、水滴がきらめいて落ちた。

双葉、足元には宇宙があるのよとお母さんが言っていた。
「うちゅう?」小さな私が思い出の中でつぶやき、はっと顔を上げる。雲も木々も色も、十二歳の私もすべて、水面に逆さまに映り、揺れてはまた、元に戻った。
遠くでキジバトが鳴く。
桃色の光が山を乗り越えて、ふくらむ。朝が来る。
あの写真の場所は、ここだったのかな。


と、土色のかえるが、でっぷりとした腹ごと、びたんと田んぼに飛び込んだ。

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旅のはじまり


「おかあさん、みて! きらきらしてるよ! おそらが、おちてきたよ」
四歳の娘が、窓ぎわで小さな手をひらひらさせる。
夜明け、ごみ出しに出たときは、白い空が、呼吸をぼたぼた落とすように、雪が降っていた。いつの間にか朝日がのぞき、光に照らされた雪原は、大地に落ちた宇宙のようにきらめいていた。
「ほんとだ……」

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携帯のアラームが鳴った。
「ほら、急いで! 歯磨き!」

娘は私の膝に頭をあずけ、仰向けになった。小さな歯を、しゃこしゃこ磨く。


と、ふと顔をあげると、鏡の中に母がいた。
はっと息を呑む。
いや、それは私自身であった。髪をひとつにしばった、四十目前の私だ。
「お母さん?」娘がまんまるな目で見上げた。
「おーい、出発するぞー」遠くから夫が呼ぶ。
「はーい、今行くー! さ、うがいしよう」


保育園へ行く夫と娘を見送り、農作業場に向かった。トラクターや管理機が並ぶ先で、お父さんとケンさんが米袋を運んでいた。
お父さんはもう七十にもなるのに、背筋は伸び、細身だがしっかりしている。

「お父さん、ありがと!」
お父さんは右手を挙げた。

「ケンさん、おはようございます」
赤いつなぎ、頭にタオルを巻いたケンさんは「おう! 双葉社長! 今日も米出荷するよな?」と積み上がったコンテナに手をかけた。今年で還暦なのに、小麦色の肌がそう思わせるのか、相変わらず若々しい。

「そうですね、すぐ伝票出すので、先に段ボール組み立ててもらえれば」
「はいよ!」

それから駆け足で、別棟の食品加工所に向かった。
「おはようございまーす!」パートさんたちの元気な声が響いた。


敷地をぐるっとまわり、事務所に戻ってふうと一息ついた。
「なあ」
「わっ!」
急に後ろからケンさんが呼びかけ、体が跳ねた。

「なんですか!」

「今日父ちゃんと『こいけ』に寿司食いに行くって?」

「えっ、なんで知ってるんですか」

「さっき父ちゃんが言ってたよ。双葉が古希をお祝いしてくれるって」

「そんなこと、いちいち言わなくてもいいのに」

「嬉しそうでさ。でも双葉は陽子さんと同じ歳になって立派になったのに、その姿を自分だけが見れて申し訳ないってさ」

「そうなんだ……全然いいのに」

「父ちゃんの中には、ずっと陽子さんがいるんだな。俺も今日は嫁と飯食いに行くっかなー」とケンさんは、お米の出荷伝票をぴっと取って去っていった。


「陽子さん」とは私の母だ。私はお母さんが亡くなった歳に追いついてしまった。そして私はまだ生きている。


こんな私も、お母さんになった。


私は昔、死んでしまったお母さんと、旅をしたことがある。
欠けてしまったものを埋めることに、必死だった、私の旅。
今日は少しだけ、そのときのことを、思い出す。

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     ※※

お母さんが、死んだ。
お父さんは「お母さんは、ちょっと体調を崩しただけ」と言っていたのに、じつは違った。
火そう場で聞いたから。
「癌だったそうで、早かったわね」
「若いから進行も早くて」


その時、体の底から熱くてどろどろした、小さな生き物が生まれてきた。
お父さんは、うそをついた。
お母さんは私をひとりぼっちにした。二人ともがにくい。
私を、「かわいそう」となぐさめてくる人たちもにくい。これをくつじょくてき、という感情だとあとから知った。


「双葉ちゃん、お母さんはずっとそばにいるからね」と親せきらしいおばさんが上のほうからしめった声をかけてきたが、見下されてるようで気持ち悪くて、ドンと突き返し走って逃げた。べっとりなすりつけられた言葉を落とすように、トイレで泣いた。


もう泣いてやるものか。
運命に対する、せんせんふこくをした。
そしてお父さんを、さけるようになった。


それから、私のからだは学校で暴れるようになった。
大きらいなのは、お父さんとお母さんと、かわいそうかわいそうと言ってくる人たちだけだったはずなのに、全部が大きらいになった。大きらいな気持ちは、私の中で人のかたちになって、その子はイスを投げ、机を倒し、私の心にびりびり触れてくる男子を、叩いてひっぱってちぎりにかかった。
「あのこ、変わったね」
ひとりぼっちになった私は、どんなことをやっても離れていかないものがほしかったのかもしれない。でもみんな、離れてく。


変わったのはみんななのに。私はかわいそうな子じゃないのに。
圧倒せねば。もっとかしこくて、強い女の子になろう。じゃないと、じっとりしたかわいそうの目も、ヒマ人の私への関心も、だまらすことはできない。

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けれど、小六になったばかりの春、事件は起きた。


ぽたっと、床に真っ赤な血が落ちる。
ななめ後ろの席の男子が、ガタッと立ち上がった。
教室の毛穴がブワッと開くようにざわめく。
私のお尻は、生あたたかい沼に半分浸かっているようだった。
ほほが熱くなる。
はずかしくて立ち上がれない。
マリ先生が私のうでを引き上げると、イスは太もものかたちに血のあとがつき、ツンとしたにおいが広がった。

後ろから男子の声が聞こえた。
「ははっ、生理じゃね? きも」


私は、ろうかに赤い足あとを残しながら、走って逃げた。


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連休明け、今日一日頑張ったあなた、眠れないあなたへ、山から吹く風をお届けできますと幸いです。



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