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写真家として出来ること。

日曜日に久しぶりに都内にギャラリー巡りに行った。不勉強で申し訳ないが、関東圏内に住んでいるにも関わらずわたしは人の展示をあまり観に行かないほうだと思う。観たい展示でも観に行かないようにしている。写真家にはそれぞれ世界観があって、それを観て良い刺激になる時もあれば自分の写真を否定したくなることもあり諸刃の刃なのだ。ポートフォリオレビューも、審査員の価値観で全否定される人も勿論いるし。あとは前に長男の保育中に都内に車飛ばして往復して、事故に巻き込まれて車1台だめにしたことなどもあり、都内に写真を観に行けるときは自分に余裕ある時か写真で何かを吸収することを切望している時ではないと行けない。


その日はギャラリーを約束していた写真仲間と回ったわけだが、写真仲間が塩釜のポートフォリオレビューに出すというので、ステートメントを見せてもらった。そのとき仲間内でステートメントについてやんややんやとあれこれ議論したわけだが、その時話したのがまず

①作者はこの写真をなぜ、なんのために作っているのか?
②見た人にどういう作用を起こしたいのか?_

特に①は自分が自分の作品をどう感じているのか、自分の意思を中心に話して、それを再度ステートメントに落とし込もうという流れになったわけだが、翌日彼女に完成した文章を見せてもらって思ったことがある。彼女の文章は淡々と自分の想いを抜いているかのように見えた。①って本当に重要?


人はなぜ写真を人に見せるのか?
人はなぜ写真を撮るのかを訊かれたら、単純に自分が撮りたいからであるのと同時に人に見せたいからだ。人はなぜ写真を人に見せるのかは、自分が見たものとの共有欲求である。しかしながら写真家というものは少し視点が違う。

「希望を見せたい」
その作品で何をしたいかを話している途中、彼女はそんなことを呟いていた。何がしたいか、て実は重要なことだと思う。

他の写真家がしてることなんて、本当はぶっちゃけどうでもいいこと、自分が写真家として何がしたいの?。以前、人前で話したことがあるのだが、コロナ禍は作品を出すことにすごく悩んだ。わたしはフィルムだけで作品を制作していたから、暗室を使って焼かないと作品を作れなかった。暗室番のプリンターのかたは70代で、当時の新型コロナウィルスは高齢者の致死率が高かった。お世話になっている大事な人を命の危険にさらさないと写真が焼けなかった。展示の予定がある、それを辞める?辞めないのならば、そうしてまで作品を発表する必要があるか?自問自答した。

自分にとって本当に大事なこと、人に伝えたいことがないなら作品は発表する必要はないと思う。ただの自分の承認欲求ならそれは要らない。彼女が言う「希望を見せたい」は、写真家として必要な想いだと思う。世の中に何を提示したいか?自分の作品を見た人に何を渡したいか。ドキュメンタリーや社会性のある作品はその使命が伝わりやすいかもしれない。
わたしのような私写真に近いものは他人に伝えられる分かりやすいものはないかもしれないが、展示をするのであれば明確な目的はステートメントにはっきりと書くようにしている。そこで相手が何を受け取るかは受け取り手に委ねられるわけだが、誰かに何かを伝えたいという思いは写真家として持つべきと思う。

自分のために写真を撮っている。
写真でなければ辿り着けない答えを見つけるために写真を発表している。他者に見られるということは、より違う視点で写真のレベルを底上げすることになるから。見た目も文章も変わる。マスターベーションは要らない。人から見える場所で芸術家は使命を果たせると思う。


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