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10代、20代の人に学んでほしいスキル

今日は特に10代、20代の若い方に向けて、書きたいと思います。

(というのも、私の長女がちょうど18歳になり、今年、家を出て行くことになったので、娘に伝えたいことをまとめていたら、娘だけに伝えるのはもったいないなと感じたからです。)

(※私の投資コミュニティに入会してくださっている10代、20代の会員さんを意識して書いた文章を、多少手直しして公開します)


今、若いときから、お金を増やすための学びに取り組み始めていることは、ほんとうに素晴らしいことだと思います。

今日のテーマは、トレードとは直接関係のない話ですが、重要なことです。

でも、あまり関心のない方は、読み飛ばしていただいてかまいません。

まだ「時」ではないということなのでしょう。


以前、メルマガで何度か、「相場現象学」の話をしました。

相場現象学というのは私の造語ですが、私の恩師から学んだ現象学が土台となっています。

現象学は哲学の一つの分野です。

現象学については、フッサールやハイデガーが有名です。

みなさんは哲学にどのような印象をお持ちでしょうか?

一部の哲学を学ぶ人たちは、哲学を学ぶこと自体が目的になっているようにも感じますが、哲学とは本来、より良く生きるための学問です。


もう少し突っ込んで言えば、いかに人生を楽しむか。

直接的でいやらしい言い方をすれば、いかにお金を稼げるようになるか、ということだと私自身は理解しています。

え?哲学とはお金からいちばん遠い学問じゃないの?

お金を稼ぐための学問が哲学だって?

・・・と違和感を感じる方も多いと思いますが、それはそれでよいと思っています。


哲学とは、決して崇高な学問ではなくて、非常になまなましく、人間の醜悪や機微も描き出す、もっといえばお金に困ったり、お金を持ちすぎた人がどう行動するかという行動心理学のもとになっている基礎的学問だと考えています。


中世ヨーロッパでは、最も地位の高い学問は神学でした。

わたしたちが中学や高校の歴史で学んだ通り、教皇と教会が権力を握る政教一致の世界であり、為政者が宗教によって人々を支配する世界でしたから、神学の地位が最も高かったのは、ある意味当然だと思います。

その時代、哲学は神学に従属するものと考えられており、哲学そのものの自由な研究は制限されていました。

(キリスト教の枠を離れて哲学を研究すれば命にもかかわった)

当時、神学→→哲学→→自然科学という秩序はとても大事でした。

自由な学問が許されなかったわけです。


だから、地動説をとなえて命を落とした人々もたくさんいました。

哲学が神学から自由になったのは、もう少し後のことです。

教会を恐れずに自由に科学を研究できるようになったのは、もっと後のことです。

それは政教分離の概念が広く共有され始めた時代と重なります。


ただ、神学がたんなる悪者かというと、そう単純化もできなくて、ヨーロッパでは中世以来一貫して、神学は、宗教のための学問ではなく、世界観を形作るための学問と考えられています。

また、哲学は、時代によって、神の存在を擁護するための学問にもなり、神の存在を否定するための学問にもなりました。

良くも悪くも、ヨーロッパではキリスト教の縛り(呪縛?)から自由になることができず、常に神学は重要なポジションに置かれ続けています。


神学も、哲学も、論争のための学問でした。

ドイツでは、最近まで(今はどうかわかりません)神学部の偏差値が最も高かったそうですね(偏差値というのは日本だけですので便宜上そう表現しています)。

そして、神学部を卒業した人の所得はずば抜けているそうです。

神学がわからなければ哲学がわからない、哲学がわからなければ自然科学や社会科学もわからない、そんな考え方が根底にはあるようです。


神学と哲学は、論争のための学問です。

論争とは、「戦い」であり、相手を論破することが目的です。

論破することとはすなわち、相手のイデオロギーを打ち負かすということが究極的な到達地点になります。

勢力争い、権力争い、主導権をめぐる戦いです。

そのための道具です。


そして論争した結果として、相手に矛盾を突かれないための体系化がなされます。

それが世界観です。


世界観の体系化は、さまざまな学問の構築や発展に寄与しました。

(自由な学問を制限し、弾圧していた神学が、他の学問の発展に寄与したのだから逆説的です。)


そういうわけで、ヨーロッパにおいて神学と哲学は学問の基礎の基礎であり、それ自体が研究対象というよりも、いかにして実学を構築するかという道具なのですね。

実学とは、それぞれ医学、法学を筆頭とする自然科学と社会科学です。

社会科学と自然科学は、それ単独では成立しえず、概念化・定義づけ・体系化の道具としての神学と哲学を必要としたのです。

そして、もっと具体的には、論理学が必要になり、論理学を使うためには数学や言語学が必要になったのです。

数学は概念の定式化のために必要であり、言語学は概念の定義づけのために必要です。

のちに社会科学と自然科学はバラバラに細かく切り刻まれて、さまざまな研究対象が生まれました。

経済学もその1つです。


20世紀には、経済学はマクロ経済学とミクロ経済学に分類されました。

これは経済学だけには限りませんが、経済学の一分野だけを勉強していても、まったく理解できません。

マクロ経済学は政府の政策と不可分であり、政府の政策は宗教、イデオロギー、外交なしには理解できません。

それだけでなく、仮説と検証と理論構築という考え方の枠組みも必要です。


収支や景気、物価等のデータが必要なことから、マクロ経済学から統計学が注目されるようになりました。

対してミクロ経済学は、より数学や物理学の影響が強くなっています。

ミクロ経済では、企業や家計が分析対象となりますが、これは必然的に、人々の幸せ(充足感)をあつかうことになります。

数学や物理ができればよい、ということではないことがわかりますよね。


そして、ミクロ経済とマクロ経済は不可分です。


ミクロ経済学から派生した学問として、経営学もあります。

経営学から行動科学、マネジメント、心理学(もともと哲学と医学から出てきたものだが、ビジネス現場における現代の心理学は人の心を利用する人間操縦学になり下がったものも多い)、また教育学にもつながっていきます。

派生した学問としては、会計学もそうですし、挙げればきりがありません。


自己啓発などは向上心や幸福追求(広い概念的な意味での宗教心)や不安心理(哲学や文学が扱う内容)を表層的にうまく利用して、その地位を確保しています。

自己啓発は、学問を活用したビジネスとしては、本当によくできています

アドラー心理学が人気ですが、それは明確な理由があると私は思います。

いろいろな概念や現象が切り刻まれて、もともとの生き方や知を考える体系がみえなくなっている現代人の現状。

そして社会が細分化することによって大局が見えなくなり、より身近な現象から受けるストレスへの耐性が弱くなった現代人の現象。

この2つと無関係ではないように感じています。


より身近な現象から受けるストレスというのは、人間関係にほかなりません。

そのような現代人のニーズを満たすために、タイミングがドンピシャリでした。

さらに、日本で悪質な新興宗教が流行し、洗脳などの現象が起こっていることも、知の体系化ができている人が知の体系化ができていない人に対して、「学問の悪用、知の悪用」をしている構図です。


ほんらいは人文科学についても書きたいのですが、長くなりすぎるので割愛します。

一つだけ指摘したいのは、人文科学は、自然科学と社会科学同様、後から設定されたカテゴリーだということです。

哲学、文学、宗教学、教育学、心理学などをまとめてこのようにカテゴライズしたのです。

しかし人文科学はもともとは、文献学がその土台になっていると考えられます。

ヨーロッパにおけるいわゆる「聖書研究」ですね。

そしてキリスト教批判のための宗教学、さらに時代は紀元前に遡りますが権力者を批判するための風刺から始まった文学。

経済学と同様、文学にもマクロとミクロがあります。

・・・このあたりでやめておきますね。


なぜこのようなことを書いているかというと、お金を稼ぐためのスキルは、スキルだけ切り取られても意味をなさず、実際にお金を稼ぐことは難しいということをお伝えしたかったからです。

スキルには目的があり、背景があり、原因があります。

心理学の悪用の話ではないですが、人々を利用し、お金を儲けるためにそのスキルを広げるという構図も存在しえます。


たとえば、弾道ミサイルの目的は何か?

自分を魅力的に見せるスキルの目的は何か?

プレゼンスキルの目的は何か?

子育てスキルの目的は何か?

すべて、目的があり、背景があり、原因があります。


目に見えているものだけを追っていたら、それを手に入れられないばかりか、だれかに利用されてしまいます。

トレードスキルや投資スキルも同様です。


私の「10の勝ちパターン」は、相場現象学が土台になっていると書きました。

勝ちパターンというのは、見ようによっては売買サインにも見えるわけですが、その背後にどんな目的があるのか。

なぜこのように(仕組み、構造のこと)なっているのか。

それが見えるか見えないかで、大きく変わってきます。

それがすなわち、「本質」です。


本質を見抜くために、目の前に見えるものだけでなく、全体像を把握することは非常に大事だと思っています。

この本質を見抜くことができれば、トレードはもちろん(しかもいともたやすく)、起業したり会社で働きながら目的を達成することも、社会で広く活躍することもできるようになります。

可能性が広く、広くなります。


「表面的なもの」「本質的でないもの」に対する沸点が高くなります。

若い頃は、少し有名な人やお金を稼いでいる人に出会って、この人はすごい! 一生この人についていきたい! と思うことも多々あるかもしれません。

すごそうに見える。

言っていることが立派だ。

すごい実績を出している。


本質を見抜くことができれば、多くの人がすごい!と思って信奉して騙される、そんな場面を減らすことができます。

(騙される経験も、若いときには少しはしておいた方がよいかもしれない、と個人的には思っています。)


自分の人生を賭ける価値のないものごとに対して、それを見分けて、自分の人生を大事にできるようになります。

自分の価値を守り、自分の価値を正当に評価してくれる人とだけつきあうことができます。

だれも気付いていなくても、見向きもしていなくても、ほんとうにすごいものはすごいとわかるようになります。

それはつまり、価値ある投資対象がわかるようになる、ということです。

お金を稼ぐ、儲けることにつながっていくのです。


少し話が大きくなりすぎたように感じられるかもしれませんが、投資やトレードで利益を出し続けていくにはこれが本当に大切なのです。

10の勝ちパターンは、そのような事柄も含めて、みなさんに本質を理解していただくために作られています。

ですが、ここまで書いたことすべてに同意してもらう必要はありません。

ただ、10の勝ちパターンを実践していただければ、本質がわかるような、そんな「道具」としてみなさんと共有させていただいているつもりです。


あまりまとまらなくて申し訳ありませんが、また機会があれば、もう少しわかりやすくお伝えできればと思います。

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