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広島の家の養女になり、兄と結婚した107歳の大叔母が亡くなった

大叔母が亡くなった。
父方の祖母の妹で、107歳だそうだ。
入所している施設の職員さんが、朝、大叔母が眠るように亡くなっていたのを発見したとか。これぞ大往生。

父方の祖母は早くに亡くなってしまったので、私にとってはその妹である大叔母がおばあちゃんみたいな感じだった。顔そっくりだし。

父方の祖母んちはなんだか複雑で、母は「未だに関係がよくわからない」と言っている。
「ぐうばば」と呼ばれていた父方の曾祖母(晩年、寝たきりだったのでそう呼ばれてたんだけど、この愛のない呼び名はどうなのか)夫婦は、子どもに恵まれなかったため養女をもらったそうだ。横山大観の落とし胤といわれている子どもで、父曰く「真偽のほどはわからないけど、ちょっと似てる」とらしい。そうして女の子をもらったあと、なんか勢いがついたのか夫婦には子どもが次々と産まれた。長女が私の祖母で、次女が先日亡くなった大叔母だ。

その後、大人たちの間でどういう話になったのか、大叔母は10歳のとき、やはり子どものできない夫婦に引き取られることになった。つまり祖母の家は、長子をもらい、末っ子を手放したことになる。子どもは天下の回り物だ。大叔母は東京からトコトコと汽車に乗って広島までやってきたけれど、最初のうちは寂しくて毎日泣いていたとか。それでも事業をしていた広島の夫婦は裕福で、大叔母曰く「東京から来たお嬢さんとしてとてもかわいがられた」という。それがたぶん1925年くらい。大恐慌前じゃねえか。

広島の家にはもう1人、大叔母の兄として一緒に育てられていた養子の男の子がいた。その子は別の家で養子になったけれど、ものすごくいじめられて、広島の家に逃げてきたんだそうだ。なんでいきなりその家に逃げてきたかは知らないけれど、広島のご夫婦はとても子ども好きだったのだろう、大叔母が天真爛漫なことを考えても、とてもかわいがって子どもたちを育てたのだろうと思う。
私が、子育てに血縁関係が必須じゃないと思っているのは、こういう人たちを見ているからでもある。

そうして仲良く大人になった広島の兄妹は、ある日両親から「兄妹で結婚しなさい」と言われたそうだ。養子として育てた子どもたちを結婚させる制度が昔の日本にあったそうだ。社会学の授業で習ったけど制度名を失念。心底デリカシーに欠ける制度で、大叔母は「すごくいやだった」と言っていたらしい。

でもなんだかんだそのまま結婚して、子どもも何人か産んだ。夫も優しくていい人だったらしいので、夫婦仲はよかったのだろう。

広島と言えば1945年に原爆が落とされた。大叔母の夫は市内にいて、背中に大きな傷を負ったそうだ。1990年代にがんで亡くなったと聞いているが、最期は自宅で闘病していたという。

寝ている夫の横で、大叔母がせっせと縫い物をしているので、夫が、
「なにを縫っているんだい?」
と聞くと大叔母は、
「あなたのお葬式の喪服よ」
と答えたという。

大叔母はとても子ども好きで、父や叔父を夏休み中預かって面倒を見ていたりしたらしい。会いに行くと「マサくんたちをすっぽんぽんにしてお風呂に入れてね」なんて、父はあんまり聞きたくなさそうな昔話をよくしてくれた。

大叔母が70代の頃、おうちに泊まりに行ったことがある。
自宅に置いてあるでかい和風のちゃぶ台を、森から切り出してきた木で作ったといっていた。いま考えると、70代のおばあちゃんがよくぞそんな大工仕事をしたもんだ。

大叔母の逸話はまだまだあって、若い頃はせっせと子どもたちの面倒を見ていたけれど、晩年は息子夫婦と同居して世話になっていた。お嫁さんががんになったと大叔母に告げると、開口一番「えっじゃあ私のご飯は誰が作るの?」と言ったそうだ。使えない夫以外にそんなことを言う人がいるとは思わなかった。大人としてはひと言見舞いの言葉も言えないものか。お嫁さんも、まさか半世紀以上も姑の世話をすることになるとは思ってなかっただろうが。

一方で70代のころだったか、大叔母が乳がんになったときは、入院して手術だという医師に「次の日に同窓会があるから早く帰してよ。私忙しいんだから」と文句を言って入院もせずに帰ってきたらしい。

大叔母は「原爆手帳を持っているから、電車代が無料なの」と喜んで、あちこちに出かけていたらしい。晩年はさすがに体力も衰えて、平日は介護施設、週末は自宅という二重生活をしていたそうだ。私が戦争体験本の執筆時、大叔母にも取材をしようと「戦争のお話を聞かせて」と聞くと、市内から30キロほど離れた疎開先の村でキノコ雲を見たと言う。そのまま終戦後数年そこに住んでいたというので、おやと思って聞いていたら「知り合いが市役所に勤めていたから、ズルをして原爆手帳を作ってもらったの」などと、とても本に書けないことを言いだした。この頃には会話のキャッチボールが難しくなっていて、話を深掘りすることができず、大叔母の話は本に載せられなかった。

コロナ前に何度か会いに行ったときは、5分おきに「あなただれ?」と聞いてくるので、「マサくんの娘の香菜子だよ」と言うと、「なによ、言ってくれなきゃわからないわよ!」と言って、マサくんの思い出話をしてくれるのだが、また5分後には「あなただれ?」と来る。思わず吹いてしまったら、傷ついた顔をされたのが忘れられず胸が痛い。

私が帰った後は、私のことはすっかり忘れていたけれど、1日中機嫌がよかったとお嫁さんが言っていた。

大叔母はとにかくクリエイティブな人で、ちゃぶ台のほか、縫い物やら日本人形やら、とにかくいろんなものを作っていた。ニンニクの味噌漬けは毎日一粒食べていたそうで、「おかげで風邪知らず」と言っていた。晩年は息子さんが大叔母の作った日本人形を私にくれたがるので断るのに難儀した。申し訳ないけど、日本人形って夜中に歩き出すイメージしかないので一人暮らしの家に置くのは辛い。でも大叔母が作ってくれた眼鏡ケースは、なんだかんだ20年以上愛用している。

数年前、大叔母が肺炎になり、医師からは「覚悟してください」と言われたそうだ。周囲も「とうとうか」と思っていたところ、大叔母の愛娘さんががんで亡くなったそうだ。すぐに大叔母も後を追うだろうし、いま伝えることもないと思っていたら、大叔母のほうは見る見る回復して元気になってしまった。元気になったのは喜ばしいし医師も生命の神秘を感じたことだと思うけれど、困ったのな周囲だ。愛娘さんが亡くなったことを伝えていない。お葬式も済んでいる。仕方なく隠しておこうということにしたら、そのまま何年も嘘をつき続ける羽目になってしまった。私が会いに行ったときも、お嫁さんに「××ちゃんどうしてる?」と聞いていた。お嫁さんは「もうね、ボケちゃって足腰も弱くなってダメダメ、会いに来られないの」などと言っていたけれど、伯母が言うには「気づいていたと思うわよ」とのことだ。

そういえば、私の祖母は祖父に早くに旅立たれてシングルマザーとして3人の子どもを育て上げた人だった。60歳すぎて、これから老後を謳歌しようという矢先にがんで亡くなってしまった。私が4歳のときだ。「私はアルカリ性のものばかり食べているから、がんにならないの」と言っていたというから、長生きしたかっただろうに、胸が痛む。昔は告知しないのが普通だったので、祖母は自身の病を知らずに亡くなったはずだ。すでに寝たきりになっていたぐうばばには祖母の死を伝えていなかったらしいので、世の中は秘密でいっぱいだ。

元気いっぱい天衣無縫に生きた大叔母も、近年は「みんな先に死んじゃうの」と言って寂しそうだった。そのようなことを言う人は少なくないので、老後寂しくない社会って作れないものだろうかと思う。「また会いに来るよ」と言って手を握ったけど、約束は果たせなかった。

落ち着いたらお線香を上げに行こう。




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