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自己紹介 / 不動産屋やってます

こんにちは。榎本佳納子です。
せっかくなので、noteでも自己紹介をさせていただきます。
普段の様子はX(旧Twitter)をフォローしていただけると嬉しいです。

1986年9月27日(現在37歳)に淡路島で生まれました。
淡路島での暮らしは私にはとても窮屈で、早く大人になって飛び出したいと思っていました。

転機が訪れたのは16歳の時です。オーストラリアへ留学し、そのまま現地の大学に進学しましたが、留学生活も楽しいことばかりではありませんでした。

一番つらかったのは留学して数ヶ月の頃、バスに乗せてもらえなかった経験です。白人の同級生たちは皆ぞろぞろ乗り込むのに、私は運転手に止められ、何度かバスに乗らせてもらえないことがありました。片道40分の道のりを泣きながら歩いて帰りました。

他のアジア人留学生からは「あの運転手はアジア人が嫌いだから気にしない方がいい」と言われましたが、日本人であることが差別の対象になるのだと初めて知りました。

この経験から、自分が日本人であるというアイデンティティを強く持つようになりました。日本ではいじめや環境に合わず学校を休みがちだった私が、オーストラリアでは一日も休まず通うように。

数学なら同級生にも負けないし、数字さえ合っていれば英語が完璧に喋れなくても同級生からは一目置かれるということにこの頃から気付いたので、高2〜高3では数学の単位を2つ取得して、日曜日以外の時間はほぼ勉強していました。
悲しい経験は時として「相当なエネルギーとなって後押ししてくれる」と実感した出来事です。

高校卒業時にはほとんどの留学生が日本に帰る中、私も日本の大学に進学しようとしたところ、父から「お前の英語は通用するのか!?」と喝を入れられたことがきっかけで、そのままオーストラリアのキャンベラにある国立大学に進学することになりました。

大学では会計学を勉強していたので、無意識のうちに「会計の知識を活かさなければいけない」「会計士にならなければ」と思うようになりました。

卒業後は新宿にある会計事務所で就職が決まっていましたが、その事務所で働く人たちとエレベーター前ですれ違ったときの”何とも言えない表情"を見ると、ここには居たくないという気持ちになり、結局内定を辞退することに。
その3週間後には刺激を求め、ニューヨークへ渡ることにしました。

ニューヨークではアパレル会社で事務をしたり、夜は日系の会計事務所でアルバイトをして過ごしました。
そこで、ミシェルという女性に出逢い、今でも親しくしています。ニューヨークはとにかくエネルギッシュなので、子どもたちを連れて数年以内には行きたいと思っています。

父は建設資材商社を経営していましたが、私がニューヨークに滞在している間に会社が倒産してしまいました。25歳から社長をしていた父なので、まさか会社が倒産する日が来るとは思いもしませんでした。

大きな行政案件や人々のインフラをつくる仕事でもあるので、漠然としながらも私もいつか父のやっていることに携わりたいと感じていました。

ずっと資金繰りが大変な姿、月末にはピリピリしている父を見てきたので、今では人生をリセットするには良かったのでは。。と思っています。
たくさんの人に迷惑をかけたことは間違いないですが、今も父が生きていて、孫たちと楽しそうに過ごす姿を見ていると倒産は1つの出来事だったに過ぎないと思えるようになりました。

13歳年上の夫とは、付き合って1ヶ月で結婚を決めました。夫はプロゴルファーのマネージメントをしており、非常に心が綺麗な人です。

夫と友人の出産祝いを選びに六本木ヒルズへ

私が今こうやって不動産事業をできているのも過去に夫が言ってくれた一言のおかげで、今でもそれが自信となり、私をいつも後押ししてくれています。

その出来事とはまだ私が事業を始めて間もない頃、年商50万円もいかない時代に(どんだけ少ないねん!)お金のセミナーイベントで保険の営業を受けました。

「次回は旦那さんも連れてきてください」というので、夫にも同席してもらったのですが、最初からすごい勢いで不安になることをつらつらと挙げられて、こう言いました。

「旦那さまに万が一のことがあったら、まだ奥様の仕事も軌道に乗られていないようですし、奥さんとお子さんが路頭に迷うことになるので、保険で備えたほうがいいと思います。」と。。

夫は優しく「うちの妻は商才が凄いんです。彼女なら僕が急に死んでもきっと子どもたちを立派に育てるので、心配はしていません」と保険営業の方に言いました。

そんなこと言われちゃったらもう頑張るしかない!
今でも落ち込んだときはその日の言葉を思い出して、前を向いて進んでいます。

最近夫にその日のことを聞きましたが、全く記憶にございませんでした(笑)。

一番そばにいる人が自分の成功と才能を信じてくれているというのは最大のパワーとなり、私を支えてくれます。

そろそろやっと本業の不動産のお話しができそうです。

この仕事に出会ったのは、義理の兄が不動産をしていることから興味をもちはじめました。その当時は長男が産まれたばかりで、私は専業主婦。
そのときは義母が宅建士だったので、義母が専任宅建士として不動産会社を開業しました。

まわりには「すごいね」と言われるのですが、全然すごいことではなく、選択肢のなさから開業することになりました。いくつか不動産会社のアルバイトにも応募しましたが、すべてフルタイムのみ、未経験者不可等でしたので、自分でやるしかない…という感じで不動産業者として免許を取得しました。

その後、全く仕事もないので、千駄木のコムガーデン株式会社尚建の徳山社長のもとで、賃貸を1から教えてもらいました。

自分の会社での記念すべき最初のお客さまは弟の賃貸物件仲介でした。

当時MOODY'Sに勤めていた弟から契約時にもらった15万円の手数料が最初の売上でした。

そこから少しずつですが、仲介をさせていただく機会があり、義兄の所有物件の管理を一気に任されるようになりました。アパート・駐車場・コンテナを契約されている約500人くらいを一人で管理する日々が続きました。

ゴミ屋敷や無言電話をかけてくる住人、住人同士で喧嘩して警察沙汰になったり、賃料を常習的に滞納する人、退去時には残置物が大量にあったり、賃貸管理の大変さを痛感しました。

2年ほどこんな生活が続き、私の中で何かがプツンと切れたきっかけとなる出来事がありました。真夏の日に倉庫の試し入れをしたいということで、高齢者の男性と一緒になって、車の荷物を倉庫に運ぶお手伝いをしました。

そして、事務所で倉庫の契約を結ぶときに「保証会社なんて使いたくない。ちゃんと賃料は払うんだから、1ヶ月分も余分に取るなんて詐欺だ!」と怒鳴られ、契約のお話がなくなりました。

運び入れた荷物をまた運び出し、1人で倉庫を清掃しているときに暑さのせいか倒れてしまいました。

その時、わたしが本当にしたかったことは何だったんだろう?自分が存在する意味とか価値って?と思うと涙が溢れてきました。

そのとき、夫に電話をして「もう管理業をひとりでやるのはつらすぎる。辞めるか死ぬかどっちかにしたい」と電話口で困らせてしまいました。

今思い返すと、慣れない育児と毎日いろんなトラブルが入ってくる管理業で心身ともに疲れ切っていたのだと思います。

英語を使って何かをしたい、社会の誰かの役に立つ仕事をしたいと思っていたのに、何してるんだろう。。おまけに毎日クタクタで自分の置かれている環境に幸せを感じられなくなっていました。

そこで思い切って、事務所を港区麻布台に移すことにしました。
理由は「港区なら外国人の人たちとのご縁もたくさんありそう」という単純な理由からです。

(思いついたらすぐ行動!な性格の私)

夫の実家を離れるのと当時の事務所代の20万円を払っていけるか不安でしたが、今都内に出ないと絶対後悔する!という思いで出てきました。

今となってはここが転機となっています。

この時に大きな案件をいくつか頂き、約1000万円近くの仲介手数料を頂いたので、それを軍資金に港区に本社移転が実現しました。
免許番号も(2)というときでしたが、東京都知事免許で(1)からスタートすることにしました。

その後は徐々に紹介のお客さまも増えて、外国人の方も紹介いただけるようになりました。

フランス人の自社ビルの購入のお手伝いや億ション・タワマンの購入、売却、土地の文筆からの一部売却及び新築戸建を新築、新築戸建てのフランチャイズ仲介業、民泊業、リフォーム等、不動産にまつわるありとあらゆることの相談を受けて、1案件ずつお客様と一緒に考えてご提案、解決してきて今に至ります。

過去にはデザイナー会社の女性経営者さんに「貴女の会社にはコンセプトがない。仲介なんてどこも同じ家を売るんだから差別化できない。」と言われ、落ち込むことがありましたが、今では胸を張って、弊社のコンセプトは…と語ることができます。

株式会社イーエム・ラボのコンセプトは「人に寄り添う不動産サービス」を提供することです。

物件ではなく「ひと」に焦点を当てるとこのときに決めました。

どんな悩みにでも寄り添い、解決策を探してきたからこそ、賃貸仲介業、売買仲介業、リフォームからの賃貸業、売却ではなく収益化させる等、目の前のお客様に合った不動産に関するお悩みごとをフルカスタマイズして、実行してきました。

不動産は奥が深いです。

どんなに勉強しても次々新しい知識や規制、行政の制限やルール、税金や控除等、知識をアップデートする必要がある仕事です。

反面、どんなときでも知識と経験とこの業界で培った人脈や人との出会いが顧客の悩みを解決する上では非常に大事になっているので、12年経った今もこの仕事に夢中になっています。

まだまだ現場で女性にお会いすることも少ない売買仲介の現場。

やる気はあるのに、結婚や出産で辞めざるおえない人たちが何とか続けられるようにサポートできる環境を作れないか、キャリアか家庭かを選ばなくてもどちらも諦めないカタチがあるのではないか?と働き方についても模索してきました。

この業界をもっと良くしたい。
真っ当にお客様のために奮闘している人が評価される業界にしたい。

そういう思いで全日港支部の役員をさせていただいたり、積極的に同業者に向けてnoteで気づきになる業務日報をアップしたり、同業者向けのプロ講座を開催しています。

この仕事が大好きなので、1人でも同じように思っている人が働きやすい環境になってほしいと思います。

そして、お客様のために「ひとに寄り添う不動産サービス」をご提供できればこの上ない幸せです。

今後も人とのご縁を大事に不動産業界で楽しくお仕事していきたいと思います。

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました!

プロ講座の日は白Tシャツ+ジーンズと決めています

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