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バナナはおやつに入りますか?読書は勉強に入りますか? #私の仕事


 私の仕事は、公立中学校の国語の教員です。かつて、大学で専攻したのは中古文学です。使い古した文学ではありません(笑)。要するに古典です。

 ところが、今の私は、大学で学んだことでもなく、自分の子ども時代に経験した国語の授業のリメイクでもない、全く自分自身が習ったことのない内容の国語の授業をしています。

  そりゃそうです。これだけ変化の速度が速い時代に、自分が子どものころ受けた授業を再生して何の意味があるというのでしょう。18世紀から変わらず、チョークと黒板の教育でよいわけはないのです。

 ICT機器に囲まれたこの時代にふさわしい国語の授業って何でしょう?

 私は多くの情報を取捨選択し、関連させることで「知識」を身につけ、その「知識」を関連付けていくことで「教養」を身につけてもらいたいと考えています。(もちろん、学習指導要領は尊重しながら。)

 国語の時間に、読む力、書く力をつけることを通して、理解することや意味をつくりだす楽しさを味わってもらい、人生の一助にしてもらえたら、と思っています。

 ここでは、私が、自分の仕事で叶えたい夢、未来像について書いてみようと思います。


読む力 書く力 とは?

 読むことは、目から入るあらゆる情報から、選択し、自分と比較したり、自分に関連づけたり、叙述を関連づけて推測したり、問いをつくったり、頭の中で映像化したりすることによって成立します。

そうすることで、初めて読者のなかで何かが生まれたり、発見できたり、自分なりの価値観や意味を作り出せるようになるのだと、『読む力はこうしてつける』(新評論 吉田新一郎)という本で紹介されています。

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それを中学生用に説明したのがこちらの写真です。(無計画に書いたのでわかりにくい…。下に並んでいるのは、生徒が推している本です。)

 選択、比較、関連付け、推測、問いをつくり、映像化などのスキルを使って読み、書きをくりかえすことで、意味を考えたり、意味を知ったり、意味を作り出すことができます。これは、AIにはできない分野です。

読書によるインプット、そしてそれをアウトプットする経験を積むことによって、読み書きの力は伸びていきます。

 自分に合う本、合わない本も、選書の経験を積まなければ分かりません。

 特に、公立の学校の先生は、生活の状況の違う子どもが集うわけですから、小学校入学段階で、読み書きについても、かなりの違いをもって入学してきているという事実を、受け止めた上で、読むこと、書くことの指導しなければならないと思います。

 そして、この指導に有効なのがRW リーディングワークショップです。欧米の国々で実践されている、本をテキストとして、個々の興味や関心や力量に寄り添う、読み書きの力を育てる授業です。


「国語」と「読書」が別なのは

 一方で、日本の学校では「国語」と「読書」は別の扱いになっていることが多いようです。

これには戦後の物資(本)不足が関係しています。戦後の日本には、アメリカのような授業を実現するだけの本がなかったのだそうです。

 更に、戦後、物がない中、少ない読み物や教科書を使って教師が解説していく精読型の授業が広まり、綿々と受け継がれたことが、「国語」と「読書」の分離を生じた要因だと考えている方もいます。(GHQの記録を調べた国立 国立N大学のK教授の話による。)

 娘の通う小学校の時間割には「読書の時間」があります。学校図書館に行って本を読んで借ります。どうも借りないとだめらしいです。借りた冊数が記録され、たくさん借りた子どもがほめられるようです。

 娘は、借りた本を持って帰ってくるのですが、いつも袋から出てきません(我が家の場合)。娘にとっては読書というより、持って帰ってくる筋トレです(我が家の場合)。学校図書館に多数ある本というテキストが、あまり活かされていないようです(我が家の場合…だけ?)

 「読書の時間」には、図書館に子どもを放牧して、好きに本を読ませるだけでは不十分です。読むために必要なスキル、つまり読みの方略を教えて、理解することや意味をつくりだす楽しさを味わってもらうことが、未来の読書家(=意味を作り出す人)を生み出す国語教育だと思うのです。


「せんせー、読書は勉強に入りますか」

 この問いに、私は「もちろん!」と答えたい。(だけど、学校関係者ですら「読書させとけばいい」「読書は遊びです」「読書もできないのか」「授業じゃなくて、読書なんて」などというリアクションをする方がたくさんいます。)

 物と情報があふれる現代。子どもたちは刺激的なデジタル機器やゲームのとりこになり、ややもすれば単なる消費者として情報に踊らされ、機器に使われる存在になりやすい環境に生きています。

 だからこそ、情報に踊らされるのではなく、情報を選択し、比較し、関連付け、映像化つまりイメージ化し、意味を作り出す力が必要です。それが思考や判断の力にもなります。

 AIにはできない、意味を作り出す行為は、これからの社会を作る世代に必須の力です。5W1H程度の情報は、AIが一秒にも満たない時間で整理し、文章化できる時代になっています。教師の板書をノートに取らせるような授業では、言われたことに従うことはできても、AI社会に必要な力(意味を作り出す力)がつかないと、私は思います。

 たくさんの本をテキストとして使い、個々の力や好みに応じた本を読んだり、レターエッセイ(アウトプットのひとつ)を書いたりする経験を通して、自分や社会にとっての意味を考え、価値を生み出しながら、世界を知り、拡げる。そうして、自分たちの世界を作り出す経験が、これからの社会を作る力になります。

 こうして、今noteを書いている私も、たくさんのテキストや実践した授業、成果物などを関連づけて考え、アウトプットして、私なりの意味と理解を作り出しています。そして、また読む。読むこと、書くことのサイクルが廻り、どんどん意味が作り出されていくと思うのです。

それが比較され、そこから選択され、問いが生まれ…誰かが反応を加え…。noteは理想的な読み書きサイクルの場だと思います。

子どもたちが、いつかnoteの住人になり、様々な意味や価値を作り出すこと。

これが、私が、#私の仕事でつくり出したい未来です!


最後までお読みくださいまして、ありがとうございました!


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