見出し画像

自由について思っていたこと

子供の時から自由が好きだった。これまでの人生を振り返っても、自由を求めてずっと生きてきたような気がする。でも、その自由とは何かという概念は曖昧で、大人になった今でも、自己と社会の関係において、自由の概念は更新され続けている。

好きなことをして生きる自由

子供のときに最初に知った自由は、「好きなことをして生きる」という意味での自由だった。大人になったら、多くの人は会社で働いて、別に好きでもないことをして生きていかないとならない。そんな風に人生の大半を過ごしてしまうのは、つまらないし、自由でない。

小学校低学年のときに、世の中には科学者という職業があるということを知った。自分の興味のあることを追求することができるし、理科とか算数とかが好きだったから、これは向いてそうだと思った。そのころから、好きなことを仕事にできれば、それが一番自由だから、それがいいなと思っていた。

この自由を得るためには、自分の興味のあることが得意でないといけない。でも、好きなことはたくさんやっても苦にならないから、そういう好きなことを選べば、楽しんでいるだけで能力が身について、好きなことをやって生きていけると思った。だから、基本的に勉強は、好きなことを深く長時間やることにしていた。そうすれば、自然とレベルアップし、自由に近づくはずだ。

今思えば、この仮説は当たっていたように思うし、小学生のときに気づいて良かった。その時期の方向づけに従って、実際に大人になったら曲がりなりにも科学者になった。大変なこともあるけれど、科学者になるっていいうのは、科学が好きな人にとっては、本当にハッピーな人生だと思う。

主義主張からの自由

高校生ぐらいになったときに、また別の種類の自由も求めるようになった。ある意味、当時はとても混乱していたのだと思う。知識がつき始めて複雑な疑問を持てるようになるものの、全体像がわかるほどの知識がない。特に、物理と哲学に混乱した。

まず、周りの友達とちょっとした議論などでも、それが命題として真なのかどうかということが気になって仕方なかった。誰かの意見が正しいかどうかを、客観的に数学のように証明することができるのかということが気になっていた。

日常的なことでも、善悪に関わることは、意見に過ぎなくて正しいかどうかはわからないのではないかと思っていた。そして、究極的には、なぜ事物がそもそも存在するのかという問題に答えられない限り、絶対的に正しいことなんてないと思うようになっていた。

そんなこともあって、「存在について勉強したいのだけど」と哲学の先生に相談にいった覚えがある。その時に薦められた、とっても読みにくいハイデガーの「存在と時間」を一生懸命読んだりした。わかりにくい文章を読みながら思っていたのも、そこに書いてある文章は、論理的に証明のようにできているのかということだった。世の中の多くの主張が、厳密性を欠いているのではないかと思い始めていた。

物理を習ったときも、非常に混乱した。高校で物理は、法則が天下りに教えられていて、物理が科学というプロセスを元に作られたものだということが、まるで分からなかった。物理で教えられることが、なんで正しいのかわからず、数学みたいに証明して出すのではないかと思っていた。先生に、運動方程式自体をどうやって証明するのかっていう質問をした覚えがある。当時は、数学と科学の区別がついていなかった。

そういう時期に、文章を読んで理解ができなくなったことがある。普通に話したりはできるのだけれど、書いてある文章を読むと、それが本当はどういう意味なのか、すごく分析的に読まないとわからず、テストとかで問題をだされても、意味がわからないという感覚だった。保健室に相談にいったのだけど、今思えば、そんなこと言われても困ってしまうだろうな。

そして、他人の主張というのをすごく疑うようになった。それどころか自分の主張も疑ってしまい、断言できることなんてないと思っていた。それで、人間というのは根拠の薄い主張に頼ってしまい、それは心の弱さだと思うに至った。自分自身、何か主張をしたとしても、その根拠を突き詰めていくと、そんなに揺るぎないものではないし、自分の主張を疑わない人は間違っている。それなのに、特定の主義主張や倫理観にこだわるのは弱さではないかと考えたのだった。

そういった経緯で、「主義主張からの自由」を得たいと思うようになった。これがけっこう難しい。この自由を得るためには、社会の不条理に憤りを感じたりするのも失敗だし、自分のアイデンティティを強く持つのも失敗ということになる。たとえば、どこの大学にいったとか、そういうのはアイデンティティに相当するのだけど、そういうものを感じてしまう時点で、この自由は得られていない。

ある種、すべて実在しているように見えるものは、主観的な幻にすぎず、それにこだわることから自由にならなければならない。そういう思想を高校生のときは持ち、大学生になってもけっこう続いていたかもしれない。特に悪事を働いたわけではないが、素朴な倫理観は持ち合わせていなかったし、大胆なことをするのに躊躇しない傾向があったかもしれない。

主観と科学への興味

実は、こういった自由を求めるこころが、今の意識や科学への興味の源となっている。

まず、絶対的な真理を否定するに至ったものの、それでも主観的な感覚があり、自分が生きているということが切実である事実があった。怪我をすれば痛みを感じるし、世の中の不条理には実体のある感情が起きる。空腹を感じたとき、食べ物を想像しただけでは食べたことにならない。主観的な感覚は否定できない事実だと思い、これはどういうことだと不思議だった。

それから、科学というのが、なぜ単なる哲学的議論とは違い、より真実に近づくような特別なものに見えるのかということも気になっていた。面白いアイデアを持った人がたくさん小説を書いたとしても、科学が解き明かす宇宙の事実には届かない。これはどういうことなのか。

そんなことを考えていた頃、たまたま読んだ本がセース・ノーテボームというオランダの作家「これから話す物語」という本だった。まさに、この主観が実体的であるということと、科学的真理の特殊性について触れていて、これは何かあるなと思った。

それがきっかけでオランダという面白い国の存在を知り、ドラッグや安楽死が合法なオランダの自由にも興味がわいて、実際にオランダに留学することになった。

考え方の自由

その後、紆余曲折あって、意識の研究をするようになった。それはそれでハッピーライフだった。

でも、科学の社会におけるあり方も自由に捉えて、科学者としての生き方自体ももっと自由になりたいと思った。時代とともに科学のやり方は変わってもよく、現在の社会のシステムの中で、自由に活動したいと思った。その考え方において自由でありたいと思ったというのが、前に書いたnoteの記事の話につながる。

最近は、主義主張から完全に解放されるというハードコアな悟りのような自由は追求しておらず、常識人的になってきている。でも、リアリティというのは、少し危ういところがあって、底なしに無意味になり得るということを、直感的に知っている。その上で、毎日を楽しんで、意味があると信じられることをやっていきたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?