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プレゼミナールで「哲学カフェ」(国際日本学部の特色のある授業紹介)

坪井先生が担当しているプレゼミナールでは、「哲学カフェ」を行っています。12/15は、「第17回 難民映画祭 2022」(https://unhcr.will2live.jp/cinema/)で上映されていた『マイスモールランド』を各自視聴した上で、「他者と共存しようと思うにはどうしたらいいか?」という問いについて考えていきました。以下に掲載したのは、授業を終えての、学生のみなさんの感想です。


 今回、マイスモールランドを視聴して問いを考えるという新しい方法で、テーマとして海外の人とどうしたら共存していきたいと考えられるかというような内容で話を進めていきました。今回話し合って私は外国人が日本に住み、共存していくことには賛成ですが、その後の関わり方が重要なのだと改めて感じました。私の場合は、英語を流暢に話すことができないので、外国人と話すことに少し戸惑ってしまう時があります。なので、あまり積極的に交流ができていないという状態です。これでは、町に住む外国人達と共存はできていないと言えます。なので、言語が必要ない交流ができれば、私のように英語があまり話せなかったり、話せない外国語の母語話者とも交流ができると思いました。

 今回は『マイスモールランド』を視聴した上で異文化を理解するために持つべき意識について話し合いましたが、お互いに映画の感想を発表するだけではなく作品で提起された問題について意見を出し合えたことで自分の考え方の幅も広がり、とても勉強になりました。お互いの文化をどのように理解して尊重できるか、という点について具体的に話し合うことができて良かったです。「こんな世の中になったらいいな」と漠然と考えていても実際に自分がどう行動するべきか分からなかったため、皆さんの意見が聞けて良かったです。

 日本で外国人を目にする機会は年々増えています。特にキャンパスのあるみなとみらいは外国人の方を目にしない日がないほどです。出稼ぎ、技術者としてなどその人が日本に来ることになった理由、バックボーンはそれぞれにあるはずですが、いずれにせよもはやこのグローバル化の波に抗うことなどできず、社会の多国籍化は免れることのできないことなのでしょう。
 そうした社会に向き合っていく覚悟が今後誰にでも求められることになります。しかし現実はそうもうまくいかず、外国人の間でつくられるコミュニティと日本社会はうまく接続できていないのが現状です。コミュニケーションなど最低限でも生きていくことのできる現代であっても、災害のような有事に際してそのような脆弱な関係では甚大な被害を生むことにもつながります。日本に受け入れるだけ受け入れておいて、有事の際にはほかの国の人だからと見捨ててしまうことにもつながりかねません。
 無償の善意というのは実に美しい言葉ではありますがそうした一方的な関係はやはり脆弱なものです。有事にも対応しうる強固な関係を築いていくためには、日本に来る人、そしてそれを受け入れる側の日本で互いに利益があるということが必要になるのではないでしょうか。相互に関与しあうことでどちらもメリットを享受できる関係こそが健全で強固なつながりを生み、相互理解にもつながっていくのではないでしょうか。

 私たちは「マイスモールランド」という映画を視聴し、「難民」や「移民」の外国人の方々や、さらにはハンディキャップを持った方々などの「支援」や「制度」等について自分たちの無知さ、勉強不足を改めて認識しました。そしてそこに問題意識を持ちました。私たちが今できることは何かを考えることやまずそういった問題に「興味を持つこと」が必要であると思います。今回のテーマについて、「私たち若い世代から地道に意識を変えていくしかない」と思いました。
 私たち一人ひとりの無知さで厚意であっても相手を傷つける言動をしていることはあると思います。しかし、私たちにとっても「知らない」ということは恐怖になります。相手の「言語」「文化」また、ハンディキャップを持った方々などの「特性」などは「知らない」「分からない」ものへの恐怖となってしまいます。その為、私はまず、お互いが「相手を知ること」が大切だと改めて思いました。相手を知るためには今回の映画のように、何かエンターテイメントとして学べたらいいと思いました。例えば、少し前に流行していた「silent」というドラマ等、色々なメディア、コンテンツ、作品を通してまず相手のことを知り、そこから向き合えばいいのではないかと思いました。
 しかし、授業メンバーの中でも外国人を受け入れるか否かという問いについて、受け入れないという選択をする方もいました。確かに、外国人の面倒をみなければならないという面で、金銭面、治安、近隣トラブルなど問題があることも事実です。私の理想では「お互いが」知ることなので、外国人の方々も日本の文化を理解し、少しでもお互いに寄り添っていければいいのではないかと思いました。

 自らの生まれ育った地を余儀なく追い出された難民をはじめとする、多くの他者との対話を通して、私たちは社会がより多くの人にとっていいものとなる方法を考えていかなくてはならないと感じた。そのためにも、私たちの一人一人が他者に無関心でいるのではなく、寄り添い、意見をぶつけ合いながらも、共生のための最適解を追求し続けていく必要があるのだが、問題はその意志をどのようにして人々が持ち得るのかということだった。そのためにも、社会全体の構造にある根本的な問題群への対処も必要でありつつも、私たちは大学で人文科学を学ぶ身として、文化を通して他者同士のつながりを、出来る範囲からつくりだしていく必要があるのではないのかという結論に達した。政治的な問題とは切り離された個々の価値ある文化は、あらゆる集団の垣根を超えた結束のための力を帯びており、それを媒体として、人々が助け合うことの出来る距離の近い仲間となり、帰ってこられる場所を生み出し、思いやりと対話に満ちた大きくとも「小さな」共同体を、いたるところで形成していけたらいいと考えた。

 今回のテーマは「難民」という遠いようで、身近な存在についてのものだったので、話し合えたこと自体に大きな意義があるのではないかと思います。しかし、ビザ申請が通らない現状など、私自身知らないことが多く意見が出しにくかったりと、もどかしく感じました。やはり、地道に理解を深めて、できる範囲のアクションを起こすことが難民問題の解決に向けて不可欠ではないかと思いました。また、難民問題に限らず社会問題に対して無関心であることは許されるのかどうかという話題がありましたが、私は無関心こそが1番の問題だと感じるので社会問題に対して個人の自由という考えには賛同できません。

 異なる文化や宗教、人種など、ある一つの枠組みの中の個人として相手を見ると、異文化の壁は乗り越えられないではないかと思った。相手を一個人として見て、対話を重ねる。自分に出来ることは、その小さな積み重ねだと思う。

 難民問題に関して、無知であることが1番だめだと思う。まずは映画やメディアなどを通して現実に起こっている問題を知ることから多くの人が始めないと現状は解決していかないと感じた。

 日本に住む外国人と共存するのには難しい点もあると思う。文化が違うため溶け合うのは難しいが、相手を知ろうとしないのが1番避けたい状況だ。無知なのは仕方ないが、お互いが無知よりも知ろうとして交流することが第一ステップなのではないか。日本人、外国人、アメリカ人、中国人という区切りではなく、同じ地球に住む地球人として関われればいい。こういった話題は、どうしても理想を語ると綺麗事になってしまうので難しかったが、わたしたちが所属する国際日本学部としてはとても重要な話題だった。

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