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三十歳、月読み(三)

2月18日(月)

 起きたかった時間よりも30分くらい遅れて目を覚ました。朝7:30、stand.fm で哲学をするということについて話した。「哲学」という言葉を見たり聞いたりするたび——たとえば長く付き合いのある友人が大学で哲学科と呼ばれるところに在籍していたことを思い出したり、電車の中吊りに「哲学」の文字を見つけたりするたび——わたしは、恐らくはほとんどの人と同じように、まず「てつがく、」と思って、あるいは声に洩れ出て、つぎに「それって...」と何かを問おうとして何も訊いてはいけない気がして口を噤んでしまう。
 1月7日に友人が本をくれた。それは『水中の哲学者』といって、永井玲衣さんによって書かれた本で、鈴木千佳子さんの装丁によって白と水色に包まれていた。友人から差し出されたその本は、私と目が合っている感じがした。「今思いついたんだけど、多分好きだと思うから置いてくね」と言って、こちらのようすを伺いつつも、もう手放すことを決めている目で、友人は話した。こんなにうれしい贈りものはない、とその時思った。
 その本はエッセイの形式をしていて、翌日から一篇ずつ読み進めて2月11日か12日に読み終えた。朝に読んでいたので、読み終えた翌日は朝に起きる理由を失ってしまった私が寝坊、あるいは起きないという選択をした。全部で二十篇か三十篇、あるいは四十篇あるそのエッセイの話をstand.fmでギターの練習をした後にした。片手で足る方がその配信をきいてくれているなかで、ひとりから「最近は良い言葉に出合いましたか?」と訊いてくれた。もうこの問いかけがとてもよかった。ギターをケースに仕舞ってぽつぽつと話し始めた。読み終わるのにひと月プラス1週間かかっているから、だいたい三十五篇くらいあったんだろうなと思い至ったときには、私の口はその本がどれほど自分にフィットしているかについて嬉々として話し始めていた。

2月19日(火)

 道の駅へ散歩に行くという友が、何か欲しいものはあるかと訊いてくれたので、ちょっと考えて答える。——なんかこう、あなたが気になったり、珍しいと思ったり、目の合う野菜があったらそれをひとつと、あと柑橘系もひとつお願いしたい。
 言い終わってから、なんだかとてもやっかいなお願いをしてしまったかもしれないと顔を上げると、友は楽しそうに笑いながら、わかった、と言った。自分が自分のままでいながら、ものごとを楽しめる相手の存在が心からうれしい。

2月20日(水)

 延泊した友が帰る。分かれが寂しくないのはいつからだろう。会えるひととはまた会えるという確信があるし、会わないひととは会わないし合わないし、合わせる必要もないし、宇宙もわたしたちを会わせない。分かれ際の約束もいらない。そういうものだろう、と思いたい。そうでないと、寂しくなってしまって、寂しくなってしまうと、途端に自分が一本の電信柱の上に立たされているような気分になる。風が吹けばその身は落ちる。自分の立つ場所は自分で選んだはずだから、そうであるならば、危うくない場所に立っていると思いたい。たとえば風がそよぐ緑の中とか、川が流れる道のそばとか。
 ひとと心を通わせられているという感覚になるとき、わたしがわたしと話しているような気持ちになる。わたしが好きなものを相手も好きだったり、何か異なるものを同じ視点で見つめていたり、あれ、あなたはわたしですか、あれ、もしかして、あなたもあなたと話していますか、という、気持ちに、なって、くる。

2月21日(木)

 前夜、小学校の同級生の通夜があり、参列したあと実家にて一泊。長居はせず昼過ぎには海老名まで戻ってきた。
 特におなかが空いていたわけではないのに、インドカレー屋に吸い込まれる。「カレー2種」というランチセットを頼むと、ドリンクが付いてくるらしい。あまり愛想のない店員さんに食後にコーヒーをお願いすると、さっと頷き、キッチンに消えていった。その間にすこし日記をつける。

 さらさらと動いていた手が止まり、見つけたいことばに辿り着けずに他のテーブルや配膳中の店員さんを眺める。店員さんは皆インドやその周辺の国をルーツにすると思われる容姿だった。バングラデシュやネパールのことをしばし思う。なぜかわたしはネパール国家が歌える。なぜか——明確な理由があってもなお驚いてしまう内容について、この「なぜか」を使ってしまう——高校の友達(日本人)が教えてくれたから、というのが理由だけれど、そこにも「なぜ」が続くだろう、などと考えながら店の入口のほうの壁をぼんやり見つめてていると、テーブルにサラダが来た。次いで、2種類のカレーにナンにライスにパパド、サモサまで付いてきた。見ているだけでおなかいっぱいになりながら、覚悟を決めて食べ始める。
 もくもくと食べながら、店内の観察を続ける。お店に入ったときから感じていた違和感の正体が掴めてくる。店員さんがだれひとりとして笑顔を作らないのだった。冷たいわけではなく、むしろ食器の置き方や注文の書き方には丁寧さを感じるが、そこに表情がない。
 どうやらわたしが今日インドカレー屋に来た理由は、さまざまな種類のカレーをワンプレートで食べられるからというだけでなく、異国の店員さんたちの優しい笑顔や温厚なもてなし、あわよくばフレンドリーな会話を望んでいたらしかった。少し疲れていたのかもしれない。
 この店でそれがなかったことで評価が下がったり残念に思うようなことはなかったけれど、無意識のうちにコミュニケーションを望んでいたという気づきそのものが新鮮だった。

 深夜、停電が2回あり心細かった(が、宿にゲストがいないタイミングでよかった)。

6月1日(土) その後

 この月読みを始めた当初は、誕生日前日まで記録し続けるつもりだった。けれども、2月24日から29日はタイに、3月1日から4日までは中国に滞在し、日々のことやものやひとを感受することに最大限のエネルギーをつかったために実現せず。
 今日メモを遡ったら、2月21日までは詳細に記録してあったので、ここに残しておく。中国でのことはこちらに、タイでのことはいつか。

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