見出し画像

神様との電話≪それでも私が書きたい理由≫

もう、やめる!


いいじゃん。別に私が書き続けなくたって、誰も困らないし。
私がやらなくたって、文章は誰かが書いてるし。

っていうか、誰もが書いてるし。

私が書かなくたって、地球は回るじゃん。


書かない方がいい理由なんて掃いて捨てるほどある。

子供に邪魔されてイライラと自分がメンタルを邪魔されることもなく、子供も怒られて泣くこともなくなるし、めっちゃご機嫌なスパイラルに入るじゃない。

書くための時間がそのまま自由な時間になる。

ご飯を早く作ることもできるし、読書だってできる。あんまり見ないけど、ドラマやアニメ

を見たっていいんじゃない?

楽しいことなんか世の中にたくさん、たくさんあるじゃないか。

自分の中でさんざん書かない方が楽な理由をあげる。

書かない理由をあげまくって、なんとなくホッとして、その場が収まる。

さあ、次は何、書こうかなあ……。

これだ。

これだよ。

苦笑いしか出ない。

たった、数秒前まで、書かなくていい、書かない方がいい理由をどんだけあげてたの、私?

もう、書かないって思っていたじゃん、私。

それでいいって。


でも、それでいい、なんだよね。

それが、いい。じゃないんだよね。


書かない方が楽な理由は思い浮かぶんだけど、書かない方が楽しい理由は、思い浮かばないんだ。


私が、書き始めたのっていつだったんだろう。

いつからだったのかは覚えていないけど、書き始めた理由は覚えている。


小学校低学年の頃。小さい頃から読書は好きだったけど、書くことは大して好きじゃなかった。夏休みの読書感想文の宿題は苦手だったし、何かと書かされる作文も嫌だった。


好きに書いていいよ、と言われても、なんとなく大人が求めている「正しい答え」を探しながら書いている感じ。

原稿用紙を見る沢山の目を意識しながら書いた。一番厳しいのは母親。私が書いたものは、いつだって、母親という赤ペン先生に、真っ赤に修正される。嫌だった、とても嫌だった。人格を否定されているようで。

しかも、母親の言われた通りに書き直した作文で表彰されてしまった。ものすごく恥ずかしくて。


以来、どんなに下手くそでも自分で書こうと決意した。

日記も書いたし、交換日記みたいなものも好き。挫折することも沢山あったけど、書くのは苦痛ではなかった。

中学生になって、友達同士で好きなアニメの二次創作のようなことを始めた。でも、残念ながら、悲しいくらいに絵が描けなかった。そして、声優の真似をするアフレコなどもやってみたけど、自分の声が全然好きになれなかった。

不思議と文章を書くことだけはできた。友達も面白いねと言ってくれる。手書きのマス目用紙にびっしりと文章を書いて、友達の家でコピーしてもらって同人誌もどきを作った。コピー専用のマス目用紙は、水色の線がコピーすると消えるようになっていて、その紙の質感や仕掛けが大好きだから書けていたという気もする。



授業中に熱中して小説を書いている時は、自分の頭の中が宇宙にいるような、図書館みたいなところから話が湧き出して来るような、そんな感覚になる。

数学の計算は苦手なのに、ストーリーを組み立てるための何がなんやらわからない計算は沢山出来た。

今から思えば、神様と電話しているような状態だったなあと思う。

そんな神様と会話する時間を心のどこかでずっとずっと求め続けているんだと思う。

大学生から社会人の前半までは、受験の勉強から解放された反動で、書くことからもずっと離れていた。あの頃に書くことを手放さなかったら……と思うことがあるけど、それはそれで私にとっては必要な時間だったのだと思う。

大学 4 年生で付け焼刃に出版業界を目指したけど叶わず、それでも、社会人で転職するときに、出版関連の仕事に就くことができた。

その後も自分で書くことを手繰り寄せていった気がする。

今から昔を振り返ってみると、そんなに書くということにフォーカスしていたわけではないし、だから、歩みも早くない。でも、自分が登っていける小さなスモールステップを神様が用意してくれていた。

神様、過保護じゃないかというくらいの好待遇だ。

出版関連の仕事についていたことで、結婚して仕事を辞め、遠方に引っ越してからもライターの仕事を続け

ることができたし、小説の賞でも、中途半端にあきらめられないくらいに選考に引っかかることがある。

書いた小説と友達のイラストを展示する作品展をすることで人が集える場を作ることもできた。

細々とでもいいから書き続けなさい、と神様から応援してもらっている気がするのだ。

書くのが好きで、なんとなく書き続けてきたことはあまりにも自然な流れだったので、正直、みんなが書きたいものなんだろう、と思ってきいた。

だから、数年前、それが当たり前のことではない、ということを知ってひどく驚いたのだ。

人は、生まれるときに、神様と今世で何をするのか約束をして生まれてくるという話を聞いたことがある。


その答えを私は、はっきりとはわかっていないけど、その約束を叶える手段として書くということを続けられる能力を授かったのかもしれないなと思うようになった。

沢山の人が文章で表現している中で、私が何を表現していったらいいのか、その点についてはまだ、方向性は定まりきってはいない。

それでも、自分が書いた文章を読んでくれた人が、共感してくれたり、問題提起をしてくれたり、一緒に喜んでくれたり、泣いてくれたりする。その中には、文章を読むのが好きな人も、私の文章だから読むのは苦手だけど読んでいるよ、と言ってくれる人がいる。

人気の書き手さん達に比べたら今は微々たる力だけど、私の文章でもほんの少し世界がゆらいであたたかい世界が垣間見える。それを実感してしまったから。

だから、100 の書かない理由を挙げたとしても、やっぱり私は次に何書こうと思うことがやめられないのだ。

今年も一年、お付き合い頂きありがとうございました!

来年もきっと書いてます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?